当時の新聞
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当時の新聞
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終戦時の記録
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写真は下書き用の赤紙だが、戦争末期になると物資不足になり、紙の色は薄くなっていった
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八甲田山での凍死軍人遺族への義捐金要請があり、47人から総額11円15銭が集められた
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日露戦争時の動員手簿
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各種資料
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各種資料
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軍隊入営者の引率
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滋賀県長浜市の浅井歴史民俗資料館で戦争と平和をテーマにした「終戦記念展」が開催されている。5回目となる今年は「村にきた赤紙」。102歳になる同市新居町在住の西邑仁平さんが残した千点余りの兵事資料や生活用具の中から150点が紹介されている。
高齢の西邑さんは公開に際し、こう語っている。
「大東亜戦争終結後、長い間、胸の奥に支えておりました“秘密”を皆様に公開する時代が到来したことに正直、『ホッ』としております。終戦時に軍部や警察からの『兵事に関する書類等の全てを24時間以内に焼却せよ』との命令に違反して独断で自宅に持ち帰り、隠し通した大量の書類等の処理には気掛かりでなりませんでした。このまま誰にも知らせず口に封印をしたまま墓場まで持って行こうかとも思いました……余り重要ではない雑文書のみ役場裏で焼却し『全部を焼却した』と虎姫警察署へ報告を致し、重要文書等はその夜のうちに役場のリヤカーに積み込み自宅に持ち帰った次第です……戦後62年、本当に長い年月でした。今、晴れ晴れとした気持ちにやっとなれました。有難うございました」
西邑さんは明治37年に大郷村(旧びわ町南部区域)の新居に生まれた。その後、大正11年に18歳で同村の役場に入り、昭和5年から終戦まで兵事係(村人の召集に関する業務)を務めた。当時、全国の役場にこの係があったわけだがその仕事は多岐に渡った。
(1)徴兵検査事務、(2)応召事務、(3)軍隊入営者の引率、(4)大郷村出身軍人の慰問、(5)戦地へ赴任通過兵の見送り、(6)戦死者の遺族への告知、(7)戦死者の遺骨受理や村葬の実施、(8)諸団体の事務局、(9)戦後処理
西邑さんはこの仕事をおおむね一人で任され、かなりの重圧を感じていたという。展示内容は(1)から(9)までの書類やそれにまつわるモノ、写真。他にもスパイから身を隠すための極秘召集指示書や軍人を宿泊させるための地図(各家の畳の数で宿泊人数を決定)、また他国に比べ日本がいかに軍艦が少ないかを表示したグラフ。そして、当時の新聞や雑誌、レコードや紙風船など。どれも汚れやシミが目立たず非常に保存がいい。
自宅にはまだまだ多くの書類や資料が保存されており、実は、リヤカーで運んだのも2回だった。西邑さんが多数の資料を守り続けたのは「戦死した村人(300名)や戦争に翻弄された村人の生きた証を捨てたくはなかった」から。また「一瞬でしたが『勝っている』、『勝っている』と国民を騙し続けてきた軍部への反抗心が頭をもたげた」とも語っている。そして、「如何に戦争は馬鹿げた行為だということを皆様に知っていただく証として」。
会場には息子さんが時々顔を出され、来館者の質問に答えている。息子さんによれば仁平さんは未だに当時の一番つらかったことを夢にみるという。「戦争」とともに生き、重い責任を背負った過去は到底忘れられるものではなく話すこともできない。多くの資料は23年前に亡くなった奥様にも言わず一人で抱え込んできた。初めて話したのが息子さんであり、伝えたのは去年。個人が保存していた兵事記録の公開は全国でも珍しい。
※展示品は西邑さんが兵事係をされた日中戦争から終戦までの資料の他に、大郷村役場に残されていた明治初期からの戦時資料も含まれる。すべて、リヤカーに積まれたものばかり。
浅井歴史民俗資料館の「終戦記念展」には毎年多くの来館者がある。身近なところから見つかった様々な過去に老若男女が感動と涙をにじませる。戦争記録の展示は非常に難しい。色々な見方、解釈があり、反感をかう恐れもある。戦争が如何に人を苦しめたか、苦しめられているかの証である。
そんな大変な作業や聞き取りを同館では、一人の正職員と一人のスタッフが1年前から準備を始める。当然、他の展示準備もある。継続に悩んだところ、若い人の声に後押しをされたという。
「自分の子どもに伝えたいから、今後もやってほしい」。
展示内容は政治と切り離せないが、あくまで人々の生活に着目し、記憶を留めようとしている。聞き取りという緻密でおしみない努力は常に素晴らしいメッセージとなっていることを付け加えたい。
来年もまた、楽しみである(楽しみというのは知らなかったことを知る、という意味において)。
※浅井歴史民俗資料館 滋賀県長浜市大依町528番地 Tel.(FAX)0749−74−0101 「終戦記念展」 9月2日(日)まで