「戦争がなかったらV 平和への希い」
地元に九条の会ができた。名前は「みさと早稲田9条の会」。早速発足の集いに参加した。ギター演奏の後、戦争体験者のお話がありました。シベリア抑留経験のある男性からはこんな発言でした。
「私には匂いがする。それは戦争の匂いだ。戦争は資源争奪のために起こる。石油価格は上がっているが現地では上がってない。(間の)誰かが儲かっている。私は命のある限り戦争に反対する」
その奥さんからはこんな発言がありました。
「韓国で18歳まで育ったので、韓国で日本がやったことはよく知っている。日本の戦争に協力したくないと指を全部切ってしまった人がいる。創氏改名は日本が姓を要求したからという人がいるがそんなことはない。無理やり日本の名前を押しつけられた」
印象に残る会となりました。
その会で買った「戦争がなかったらV 平和への希い」という「さいたまコープ三郷平和グループ」発行の小冊子を読みました。この本は地元の小さなグループが少ない部数出しただけなので、この記事をお読みの方の中には読んだ人はまずおられないでしょう。基本的に聞き書きで作られている本で、作られた2005年からは亡くなっている人も居られるので、三郷の生協のおかあさんたちは貴重な仕事をされたと思います。
きっとこういうことは全国・全世界で行われているのだと思います。戦争体験に限らずこういう地域に住む人の証言をまとめることは非常に大事だと思います。なにせ知っている人が語るということほど心に響くことはないですから……。上の発言をされた韓国に居られた方のお話も載っていました。
三郷には全国からいろんな方が集まっているということを、この本の執筆者の経歴を見ると感じます(韓国、広島、長崎、東京、伊豆……)。この中には貴重な10人のお話が載っていますが、ここでは1人のお話だけ紹介します。それは「蝉の鳴かなかった八月」という長崎で被爆された久保山栄典さんのお話です。
昭和20年の日記形式で書かれています。
8月9日
【一度出かけた父が何故か忘れ物をして2回も取りに戻り、「今日は行きたくないな!」と呟きながらも午前中で仕事は終わるので昼飯は一緒に食べよう、と云いながら、何度も、何度も振り返りながら手を振って出かけて行きました。「あれが我々家族に別れを惜しむお父さんの最後の姿だったのね」と今更の様に休ませればよかった、と時々呟く、母の嘆きとともに思い出されます。
この日はとても暑い日でした。午前11時2分、空襲警報解除のサイレンが鳴り、住まいの床下に掘ってある防空壕から出てきたすぐ後でした。飛行機が急上昇する爆音が響き、同時に周囲の空間が黄色になりました。その瞬間、本能的に異変を感じ又、畳を剥ぐって再び壕に飛び込んだのと同時でした、物凄い勢いの熱風が吹き、家は潰れ、身動きも出来ないように家財道具等が倒壊、散乱しました。
やや暫くして、安全な所に避難する為に戸外に出た瞬間、わが目を疑いました。いつの間にか周囲が朱一色で、太陽も真っ赤に染まり、この世の終わりが来たのかと呆然としました。そして次の瞬間、地球全体が爆発するのではないかと身が凍る思いでぞーっとして、暫く身体の震えが止まらず、血の気が引いたのを覚えています。何が起きたのかわからないまま、時間の経緯と共に父の帰りが遅い事が気懸りになってきました。
裏山の頂上まで登りましたが、其処で見た市街地の光景は、赤い油絵の具をぶちまけた様な火の海でした。山越えで逃げてくる性別も人種もわからない阿修羅の如き幽霊人間が、こちらに向かってどんどん上ってくるところでした。その様が異様で、経験したことも、考えたこともない事態を、転げるようにして家にとんで帰り、母に報告しましたが、何をどうすれば良いのか解らず、只々、父の無事を祈り、一睡もしないでその帰宅を祈りましたが、無情にも朝がやって来ました】
私の義理の母も長崎で被爆しており、この文章を読んで母に、もっとよく話を聞くことは私の義務だと思いました。
8月14日
【父の死体は燃料不足で完全には焼けきれず、特に頭の部分は半生の状態だったので、未だ燃え続けている焼け跡から鉄の棒を探してきて、なかなか割れない頭骸骨を、かなりの時間を掛けて細かく割り、今度は一人で燃えかすを集め、又木片を集めて火を点けて帰ることにしました。人間の頭骸骨がものすごく硬い事と脳みそが蜂の巣の様になっていることを、その時初めて知りました。まだまだやって来る敵機に対して叫びました、「馬鹿垂れ、これは人間のやる事ではないぞ、必ず仇を取ってやる」】
火垂るの墓でも妹を兄が焼く場面が一番悲しい場面だが、この頭骸骨がものすごく硬い事と脳みそが蜂の巣の様になっていることはとても普通の人間は知りたくないことです。
久保山さんの文章は次のように終わっています。
【その後、私は結婚する時、妻の親族に被爆の事で大変心配をかけたので、長女が生まれた翌年までは入籍しませんでした。子供が授かるかどうか、大病を患うのではないか、早死にするのではないか、色々な事が頭をよぎる毎日でした。戦争は国の責任です。今、私達の多くは時代に流され、惰眠を貪り、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、勇気ある少数には背を向けています】
人間社会と自然との織りなす循環が、振り出しに戻る被爆60周年を前に、私たちは今こそ人類未曾有の経験であった被爆という原点に戻り、この1年の間に、新たに希望に満ちた未来に向かう座標軸を創らねばなりません。戦争を知らない、そして戦争を知ろうとしない人に平和憲法はわからないのです。
現在、母も90歳です。高齢化が進みやがて消えて行く原爆の被害者が、生きているあと僅かの時間に、生態系を破壊し、何よりも人道に対する犯罪である核兵器の廃絶と、日本は絶対に戦争をやらない、という事を若い世代の人達や原爆の悲惨さを知らない人々にも訴える為に、今日は被爆者の一人として参加させて頂きました。アメリカに遠慮してばかりいる事では有りません。長崎の鐘は今日も世界平和を祈念して鳴り響いています。