昨年からの準備期間を経て今年1月30日に結成された市民団体「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」が主催。参加者は奄美から宮古・八重山までの全琉球にわたり、また在京・在阪の琉球出身者なども駆けつけた。
近世琉球を読み直す
八重山民謡、沖縄空手の披露で始まったシンポジウムの第1部では、豊見山和行・琉球大学教授が「近世琉球(1609〜1879)の国家・社会・民衆−薩摩支配との関連から−」と題して基調講演した。豊見山さんは「薩摩の琉球侵略後の近世琉球社会について、あまりにもステレオタイプで図式的な見解が、何度も焼き直されて定着してしまっている」と切り出し、例をあげながら「江戸幕府と薩摩藩の二重支配のもとで異国風を強制されていたという見方や、羊のように従順な琉球人像が今日までまかり通っているが、それは誤り」と指摘した。
国家論の側面としては「支配・従属関係は歴史段階的に捉えるべき。当初の直接占領の時期(1623年頃まで)は強圧的段階だが、その後の琉球は従属だけしていたわけではない。唐・大和の双方と外交関係を持ち、薩摩藩への上納米の増徴に抵抗するなど、主体性も発揮した。琉球がそれまでに作り上げてきた既存の支配システムに薩摩が乗っかった形の支配だったので、20〜30人程度の薩摩役人で充分成り立っていた。薩摩は収奪しながら援助するという複雑な状況があった」
社会論の側面からは、薩摩藩支配による琉球社会の変化・変容について触れた。「キリシタン禁制の中で身分移動を禁止したため、士族と百姓身分の固定化を促進し、二大身分社会となった。ヤマト商品が琉球社会へ流入する一方、琉球側が鹿児島茶の売り込みを拒否したり、琉球列島の主要航路を占拠した大和船(薩摩船籍)に対抗して琉球船を割り込ませたりなど、主体的な動きもあった」
民衆論の側面からは「王府レベルと民衆レベルでは対薩摩役人との関わり方が異なっていた。王府は接待攻勢による懐柔策を取ったが、民衆は薩摩役人に対して必ずしも服従せず、律儀でなかった」と、薩摩役人が被害者となった盗難事件が頻発したり、薩摩役人から掛け買いした品物の代金を払わないなどの例をあげた。また、薩摩は「薩摩役人が被害者であっても、加害者の琉球人を薩摩の法によって裁くのでなく琉球の法に任せた」と述べた。
最後に「薩摩藩支配による収奪・矛盾、王府の百姓支配による収奪・矛盾、両者の複合的支配によるものを弁別する必要がある。それらの矛盾の中を生き抜いてきた百姓の主体性、村(百姓)社会の自律性が、王府の薩摩藩への抵抗や政治的主体性を根底で支えていたのではないか。琉球処分によって琉球王府はなくなったが、琉球社会の持っている力は今日まで連綿と続いている」と結んだ。
奄美・八重山・宮古から見た琉球
続いて、奄美・八重山・宮古・沖縄、それぞれのパネリストから問題提起が行われた。奄美からの報告を行った薗博明さんは、「奄美は北のヤマト、南の琉球、また海の向こうのアメリカからの支配を受けてきた。薩摩侵略から400年を問う集いに、奄美からは那覇世(琉球=北山・中山王朝による支配)の145年余を付け加えたい。奄美は国家を形成することはなかったが、その中でも母間一揆、犬田布一揆、勝手世騒動など奄美人の抵抗は行われてきた」と語り、薩摩藩が鹿児島県になった後の52年間(1888〜1940)、財政分離されて切り捨てられてきたことにも触れた。
「薩・琉支配下の八重山近世史−複合的悲劇の歴史と主体性」と題して報告した砂川哲雄さんは、詳細な八重山近世史略年表を示しながら、八重山民衆を苦しめた悪名高い人頭税は「薩摩侵略以前からあったが、それが強化されていった背景には薩摩の琉球支配があった。人頭税制度は、1771年の明和大津波以降の強制移住、疫病による人口激減、役人の不正などとからみつつ、庶民を搾取する重要な役割を果たした。八重山の歴史の転換期には必ず他律的な力が働いている。政治・経済面での薩琉二重支配、文化面での二重受容という複合的・構造的支配が八重山に悲劇の歴史を刻んだ」と述べた。
宮古の下地和宏さんは「琉球の八重山侵略(1500年、オヤケアカハチの乱)の片棒を担いだのが宮古の仲宗根豊見親だった。それまでそれぞれ独自の歴史を刻んできた宮古・八重山が琉球王府の版図に組み込まれていった。その後の薩摩侵攻により薩摩・琉球王府の二重支配となったが、260年余に及ぶ人頭税社会の中で、庶民にとっては現地役人を含む三重支配であった」と語り、宮古人の抵抗として、農民が王府に直訴した多良間騒動、明治新政府に抵抗したサンシー事件、農民が立ち上がった人頭税廃止運動などに触れた。
かつて関西に住んでいた彫刻家の金城実さんは、沖縄出身青年らが次々に起こした事件からヤマト社会で苦悩する若者たちの「声なき声」を聞き取り、琉球独立への関心を深めていったと語り、牧師の平良修さんは「薩摩の琉球侵攻または侵入という表現は侵略のごまかし」であり「琉球処分ではなく琉球併合と言ったらどうか。日本復帰も琉球の再併合だ。日本(ヤマト)から離れることへの沖縄の恐怖感を打破しよう」と述べた。
琉球民族は国連が認めた先住民族
第2部の激論会では、まず、「琉球弧の先住民族会」の平良識子さんが、1996年から国連の先住民族作業部会に、琉球民族は国際人権法にもとづく自己決定権を回復すべき集団であると訴えてきたことが認められ、日本政府に対し、琉球民族を先住民族と認めるよう勧告が出されたことを報告した。
その後、パネリストを含め全参加者に開かれた討論が行われ、「日琉同祖論」をどう超えるか、失われていく言葉の問題、学校教育にウチナーグチを、沖縄は沖縄の憲法を持つべき、沖縄振興策をこれ以上受け入れるべきか、琉球・独立平和村の呼びかけ、道州制問題など、さまざまな問題提起や意見が出された。「薩摩侵略以前の琉球は交易で成り立っていたが、それ以降は農業できない土地に縛り付けられた。沖縄の今後の経済的自立にとって観光は重要だが、それだけでは食べていけない。価値を生まない軍事基地を価値あるものに作り直し、中継加工貿易を」という提案もあった。
5時間以上にわたるシンポジウムだったが、時間が経つほどに参加者は増え、議論は白熱した。どれもすぐに結論の出るテーマではない。主催者は今後も同様の催しを重ね、論議を深めていく予定だ。