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2月3日は、本阿弥光悦(1558−1637年)の忌日である。寛永14年丁丑2月3日。壽80歳。 洛北・鷹が峰の光悦寺は光悦の死後に建てられたものだ。日蓮宗、大虚山光悦寺は、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、鷹峰三山の南麓にある。 『本阿弥行状記』によれば、光悦にこの地を与えようと考えそれを命じたのは家康であった。 或る時、「光悦はどうしているか」と伊賀守にお尋ねになり、存命なれど、異風者にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕り度よしと申上げた。 権現様(家康)は次のように仰せられた。 「 近江丹波などより京都への道用心あしき、辻切追いはぎをする所あるべし、左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所も取立べきもの也との上意なり」 京の町衆であり既に卓越した作家であったものの、開拓できる別天地を求めていた光悦にとって、家康の命による鷹ヶ峰一帯の賜物は願ってもないことであった。辻切追いはぎが出る所であろうと、彼は雄大な自然に恵まれたこの地を愛した。 このようにして光悦一属はここに集団移住をし、芸術村を作ったのであるが、彼の才能は芸術にとどまらず、経営、経済という方面で近代化に大きく貢献したことを、私は思うのである。光悦の真価はここにあるような気がする。 光悦が慈悲心厚く、正義感の強い人物であったのは、数々のエピソードからもうかがうことが出来る。 参考 續近世畸人傳卷之二 http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/str_07.htm 【凡そ藝のみにあらず、經濟の才もありて、鷹峰の邊に金掘るべき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多くその益を蒙る。もとより心ばせ正しき人にてありし。 その一事は、七月十四日にある町家へ行きたるに、常に同じく家職を營みてありしかば、悦あやしみて、「今日は貴賤となく金錢の出納に閙いそがしき日なり。なぞ斯く常にかはらぬぞ。」といふに、あるじ、「町家には利用を計るをむねとし候さぶらふ。 今日與ふべきものを五日過ぎて與ふれば、何計りの利を得ることにさぶらふ故に、今日は心いそぎも侍らず。」といひしに、悦答へもせず、家の内の者共の面を一人一人にらまへて、「よき畜生めら。」と云ひ捨てゝ出で、それよりは再び來らざりしとなり。】(引用) 光悦が激怒したのは、他の雇用主が金を惜しんで、職人たちに給与を遅らせたことであった。倫理に基づいた經濟こそ、彼の求めた世界であった。 法華信徒の光悦は、理想の共同体をねがい、日夜読経三昧に入っていたという。 光悦村は寛政11年(1799)家数が168軒・人数383人であったと記録されている。 【寛永年間洛北鷹峰を悦に賜はりしより、此處をひらきて、人家を設けたるに、若狹・丹波の通路なる故に、往來しげくなり、此の邊に山賊などいふもの絶えたり。是れより先きは、かうやうの惡黨かくれ住みて、人を犯す事多かりしとぞ】(引用) 職人を育てた芸術村 本阿弥光悦 http://www.janjan.jp/culture/0511/0511135089/1.php |