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今年は沖縄に共同店が出来て百年になる。その発祥地の国頭村(くにがみそん)奥区(以下略して:「奥」)では3月17日に「共同店サミット」を開催し、共同店が地域に貢献した業績をはじめ、現在かかえている問題などについて話し合う。 共同店は集落で経営し、地域住民の日常品や農業資材などを販売し、また地域の生産物を集荷し、都市地区で売る購買事業、施設の共同利用、金の貸し付けなどがある。中には地域貨幣に相当する「切符」を発行したところもあり、地域経済を支えてきた。構成員は幼児を含む集落の全人口であり、集落の存立と運命を共にする存在である、という特徴がある。 共同店は道路事情が悪く、町と離れた僻地などで発達してきた。山原という名称で、その辺境ぶりが表現されている国頭郡に多い。地域経済を支えてきたばかりでなく、住民に集落の共同体の一員としての意識を高めてきた。共同店は1975年ごろには沖縄本島の北部に位置する国頭郡に86、中部の中頭郡に7、南部の島尻郡に10、宮古郡に3、八重山郡に10の合計116店があった。しかし、現在は個人に経営を譲ったり、廃業に追い込まれたりして大幅に減少している。 現在、各集落に残っている共同店は、経営的には危機的な状況にある。復帰後、道路が整備されたことや自家用車の普及で、町や大型店に出かける住民が増え、共同店の売上が減少している。その一方で、集落には年と共に老人世帯が増え、遠くに買い物に行けないお年寄りたちは日用品の購入を共同店に頼らざるを得ない、という現実がある。こうした共同店が直面している問題を各地の共同店経営者が一堂に集まって話し合い、その解決策をさぐるのがサミットの狙い。 その地域の特色がよく反映されているのが共同店である。奥の共同店は1905(明治38)年に沖縄で初めて設立された。お茶や林産物などを生産者から集め、都市地区で販売。その帰途、住民が必要とする日常雑貨や食料品、生産資材などを仕入れ、共同店て販売してきた。 一般に共同店の利益は、経営などの必要経費を差し引き、その純利益を共同店の出資者に年に1回配当するケース。また集落の運営資金に組み入れたり、集落内の各種行事に寄付するなど様々のケースがある。その根底には全住民のために活用する、という考えがある。 奥共同店の事業をみると、かつて林業が盛んなころ、県有林や国有林の払い下げを共同店が取り扱っている。共同店は払い下げた山林を区分して住民に入札させ、その林産物は共同店が一括して集荷し、販売する。この方式の場合、共同店に損失が生じることがなく、利益が確保される。 奥共同店が取り扱う木炭俵には、一俵づつに生産者の住所、名前が書かれた木札が結ばれ、木炭の品質を生産者が保証していた。戦後もその方法がとられ、奥の木炭は他の地域のものより3割も高く売れた。他の地域の木炭俵にはクズものが混入している場合もあるが、奥の木炭俵には品質の悪いのは混入していない。戦前から生産者責任が確立されていたことになる。 奥は、戦前からお茶の産地として有名。お茶の製造工場があり、現在「おくミドリ」の商品名で販売されている。本土より2カ月も早く茶摘みが行われ、その一番茶は静岡に出荷されている。 戦前、与論島との郵便船が往来していたが、戦後はサンフランシスコ平和条約で本土と切り離されたため、郵便船の往来はない。集落入口にモダンな郵便局がある。2004年度から中学校が国頭中学校に統合され、小学校だけが残っている。全児童数は13人、複式授業で3クラス。 奥の集落も例外ではなく、若者が少なく老人所帯が増えている。民宿やバンガロー方式の宿泊施設もあり、のんびりと自然の中で過ごしたい都会人から人気だ、という。 奥共同店は戦前、独自の「切符」を発行し、集落内で流通させていた。「切符」というのは貨幣にかわるもの。林産物など集落の生産物の出荷量が増加し、それに見合うだけの現金が共同店にないため、苦肉の策として「切符」が発行された。その「切符」で買い物ができ、住民の間で貨幣と同じような使い方がされていた。 戦前、中部にあった嘉手納(かでな)農林学校に合格した学生は、駐在所や郵便局の職員に頼んで、「切符」と貨幣を交換してもらっていた、という。戦後も続いた制度で、独特の貨幣経済が成立していた。このやり方は国頭村内の別の共同店でも一時的に行われている。 隣りの集落・楚洲(そす)の共同店では、お金を貸す金融業も共同店が行っていた。ドル時代の事例をみると、50ドルまでは共同店に申し出れば、店員が記録して容易く借りることができた。それ以上百ドルまでは共同店主任の許可が必要。また、家を新築など大金が必要の場合には、集落の幹部の審議をえて貸付けが行われている。小さな集落内で肩を寄せ合うように生活しており、金を借りる人の勤勉さ、誠実さなどがよく分かっているので、無理な課し付けはなかった、という。また、大金を必要とする者は日ごろから計画し、それなりの行動を展開してきた、という。そこが共同店の特色であり、相互の絆を強めることになった。 道路事情がもっとも悪く、『陸の孤島』と呼ばれていた楚洲は共同店が、独自の船を持ち、沖縄本島の中部の地域と交易を長年続けている。 各集落の共同店は、それぞれの発生の歴史、経営に地域色がにじみ出ており、一律に論じることは難しい。集落の経済活動を支えてきた共同店は、地域住民の共同体意識も形勢してきた。だが、時代の流れの中で、大きな曲がり角に直面している。それだけに今回のサミットが注目されている。 (注1)共同店は共同売店ともいう。集落の住民たちが出資、また集落の共有地などを売った資金などで設立されている。 (注2)奥の場合には、共同店を中心にした経済活動が盛んであり、また共同意識が強固な社会なので「共産部落」と表現された新聞や雑誌の記事が散見されるが、住民は保守支持者がほとんどである。 |