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日本 音楽 NA_テーマ2
不動の魂・東海林太郎そのデビュー
2006/06/15

 昭和モダンを舞台に、ビクター藤山一郎、コロムビア松平晃ら、青春歌手が人気を博していた頃、満州帰りの風変わりな男が彗星のごとく歌謡界に登場した。東海林太郎である。そのデビューは衝撃だった。

 東海林太郎は、1898(明治31)年、雪深い秋田に生まれた。1923(大正12)年、早稲田の研究科(大学院)を修了すると満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社、その庶務部調査課に入った。
 満鉄調査部は、重要な情報機関で日本の南満州経営の中枢を担っていた。早稲田の恩師、マルクス主義経済学者佐野学の勧めらしい。だが、東海林は、「満州に於ける産業組合」があまりにも左翼的、ということで1927(昭和2)年、大連から鉄嶺の図書館に左遷された。

 東海林は、悶々とした日々を送りながら、音楽の夢、クラシック歌手の夢が捨て切れず、結局、7年間在籍した満鉄を辞職した。そして1930(昭和5)年、昭和恐慌が吹き荒れる中、退職金5万円(5千円という説もある)を持って、二度目の妻となるシズと子供、愛犬のセパードを連れて帰国した。

 新宿・早稲田の鶴巻町で弟と中華料理店を経営しながら、レコード会社のテストを受けたが、音楽学校を出ていない、ということで結果は無残だった。

 1933(昭和8)年5月、東海林は「時事新報社」主催の音楽コンクール本選で《仮面舞踏会のレナート》のアリアを歌って入賞した。これで歌手への道が開けた。東海林は、キングレコードにクラシック歌手の契約を希望した。だが、契約は流行歌手としてのそれだった。

 藤山一郎は、本名の「増永丈夫」では正確無比の歌唱と豊かな声量でマイクロフォン無しに独唱するバリトンの声楽家だが、「藤山一郎」になれば、美しいメッツアヴォーチェの響きをマイクロフォンに乗せる流行歌手に変貌する。クラシック歌手が流行歌手になる。これもモダニズムである。東海林が流行歌手への途を決心したのは、ちょうどその頃、恩師佐野学が獄中から転向声明(1933年6月)を出したことも、何らかの影を落としていたようだ。

 流行歌のレコードは、1933(昭和8)年3月、ニットーレコードで《宇治茶摘唄》が最初の吹込み。その後、キングの専属になり、1933(昭和8)年、プロ歌手になった。キングでは《河原月夜》《山は夕焼け》などを吹込んだ。放送オペラにも出演、《椿姫》で医師の役を演じた。

 1933(昭和8)年の暮れ、ポリドールの専属も兼ねていた東海林は、運命を大きく変える楽譜を渡された。《赤城の子守唄》である。彼は、歌のテーマになっていた国定忠治や、その乾分の「板割浅太郎」を知らなかった。生来、彼は渡世人というようなアウトローの生活をしたことがないのだから、分かるはずがない。

 東海林は正月休みに、その泣き方を練習した。だが、自分が本来歌いたかった《シューベルトの子守歌》や《モーツアルトの子守歌》とは、およそ違う。東海林は吹込み当日、悲壮感を漂わせながら歌った。レコードは1934(昭和9)年2月新譜で発売、大ヒットした。
 直立不動の姿勢と澄んだバリトンの響きで日本調歌謡を歌う、東海林太郎時代が到来したのだ。

(菊池清麿)

直立不動の姿勢と澄んだ響きで日本調歌謡を歌い一世を風靡
















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