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12月26日は、京の風物詩である顔見世興行(南座)の千秋楽の日でした。 ネット検索での顔見世サイトから電話予約を入れたのがつい先日。便利なのはいいですが利口な席はすべて満席。結局残っているのは値段のイタイ一等席になりました。まあ、ご祝儀と思えば……とアキラメ顔。私が見た昼の部について書いてみることにします。 当たる亥歳 吉例顔見世興行 東西大歌舞伎 十八代中村勘三郎襲名披露公演 (昼の部 10時30分開演) 第一、猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら) 第二、寿曽我対面 (ことぶきそがのたいめん) 第三、義経千本桜 道行初音旅(みちゆきはつねのたび)佐藤忠信実は源九郎狐 第四、義経千本桜 川連法眼館(かわつらほうげんやかた)佐藤忠信実は源九郎狐 第五、お染久松 浮塒鴎(うきねのともどり)女猿曳き 猿若江戸の初櫓/寿曽我対面 猿若とは初代勘三郎のことです。かぶき踊りの出雲の阿国と猿若が京から江戸へ下る、芝居はここから始まりますが、歌舞伎の根源をいみじくも謂っているわけです。 出雲の阿国と猿若が江戸へやって来ると、材木商・福富屋が思案に暮れています。将軍家への献上物の蓬莱を悪者の妨害を受け運べなくなったのです。すると猿若は得意の音頭で仲間内と手車を曵かせ目的を達することができたのです。 かくして奉行の知遇を得て、材木商・福富屋の寄進で日本橋中橋に芝居小屋の櫓を上げるまでが歌舞音曲によって繰り広げられるのでした。 芝居の中には「京から江戸へくだった」というセリフがありました。上洛といえば京の都へ上がること。江戸時代は皇居が京にあったのでこの言い習わしが自然だったのですね。状況が変わった今でも依然として存在感ある言葉です。 勘太郎の猿若、七之助の阿国。勘三郎の長男である勘太郎と二男七之助の二兄弟の活躍は目を見張るものがありました。 ところで、昼の部の最後のお染久松 浮塒鴎(うきねのともどり)に出てくる「女猿曳き」が、じつは最初の出し物、猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら)と関わりあっているのです。 義経千本桜 道行初音旅(みちゆきはつねのたび) これは『義経千本桜』の四段目に当たります。静御前が忠信を供にした道中を綴ったもの。 季節は春、吉野山中に義経が身を隠していると耳にした愛妾・静御前は、供の忠信とはるばるやって来ました。休息をとる二人は、ともに義経から賜った“着長の鎧”と“初音の鼓”を義経の姿と見立てて恋い慕います。(勘三郎の忠信に藤十郎の静御前という大顔合せです) 勘三郎の忠信はじつはキツネが化けているのですが、親キツネの皮が張られた“初音の鼓”を慕い、静が鼓を打つと必ず現れるという設定。時々みられるキツネの振りが愛らしさと哀れをかもしだす勘三郎の名演技でした。 義経千本桜 川連法眼館(かわつらほうげんやかた) 『義経千本桜』の四段目に当たり、佐藤忠信が実は狐の化身であったと判明し、義経がキツネを許してやるという結末です。 兄・源頼朝と不仲になった義経が匿われている館。そこへ家臣・佐藤忠信が入来する。義経の前へとやってくると不思議なことが……。独特の台詞術や、早変わり・欄干渡りなど、ケレンでも魅せる義太夫歌舞伎の名作の一つとして有名です。(勘三郎の忠信、仁左衛門の義経、翫雀の駿河、橋之助の亀井、勘太郎の静) 当時、兄頼朝から謀反というあらぬ嫌疑をかけられた義経。人間界では骨肉の争いが繰り返される現実をキツネの親子の情愛と対比させた脚色は、テンポも速く批判精神が縦横にみられる面白さです。 すべてを理解した義経、静御前は子キツネが慕う“初音の鼓”を与えます。嬉々として森に帰って行く源九郎狐。西から東へと歌舞伎の立ち位置の変化も見所といえます。 白い独特の衣装でキツネを熱演する勘三郎。アクロバットありそれはもう大変な重労働です。連日連夜全く手を抜くことなく、8時間労働以上の働きをする役者さん達には頭がさがりました。夜の部に比べると配役が総じて若い感は否めませんが、中村一門の披露という意味で先ずはお祝いを申し上げましょう。 日本の宝がここにもあると、今年も私は思ったことでした。(本稿は、顔見世公式サイト解説などを参考にしました) 関連記事:世界遺産に登録された歌舞伎 顔見世で坂田藤十郎襲名披露 ◇ ◇ ◇
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