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コラム

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

椿伊津子2007/06/19
京都は漱石にとって縁うすい都のようですが土地との繋がりというより漱石を看病した祇園のお多佳さんの様に人との深い縁があり「風流」を愛した日々のある都ではなかったのでしょうか。
京都 便り NA_テーマ2
 夏目漱石は京都をどのように思っていたのでしょうか。満49歳で死去した漱石の生涯のなかで京都は大きい位置を占めていると思われます。

 土地との繋がりというよりは京都では人との深い縁がありました。京都に来たのは都合4回でしたが、明治40(1907)年3月朝日新聞入社について、朝日新聞社長の村山龍平は漱石を京都に定住させたいと希望していました。池辺三山にその旨を漱石に伝えさせた記録も残っています。

 また、尊敬する学友である狩野亨吉は明治39(1906)年京都帝国大学文科大学長に就任し、同年、7月には漱石に英文学の講座担当を依頼しています。しかし、村山龍平と狩野亨吉の願いはいずれも漱石によって拒絶されたのでした。漱石は京都に住することを望まなかったのです。底冷えの厳しい京の気候が合わなかったのかもしれません。

 縁うすい都のようでありますが、一方では懐旧の情をもって作品や日記・書簡に書いているのも京都なのでした。文芸芸妓といわれその教養が谷崎潤一郎ほかの文士に愛された祇園甲部のお多佳さんは、京都の宿で病に倒れ呻吟する漱石を看護し、文豪の孤独な晩年に風流の華をそえました。

 鴨川のほとり、お池大橋西詰にある漱石句碑は、漱石と京都との縁(えにし)を淡々と書きとどめています。ただ、現在はこの銘板は見えなくなっています。いずれ元のように復元されることが期待されます。



句碑の銘文

漱石と京都

明治二十五年 夏

子規と京都に遊ぶ

明治四十年 春

朝日新聞社入社のため上洛 狩野亨吉邸に泊す

虚子と遊び「虞美人草」等の取材を得 後 春はものゝ句になり易し京の町 の句もあり

大正四年 春

旅亭 大嘉(この付近)に泊し 一草亭 青楓らと仕事の疲れを医す

漱石病み 祇園の磯田多佳ら看病のことあり

句碑の 春の川を隔てて男女哉 は三月 多佳におくった句である。

昭和四十二年四月九日   京都漱石句碑の会



 以上の銘文は京都漱石句碑の会が、漱石を敬慕する有志の方々の浄財をもって建立した句碑の事由をしるしたものです。漱石句碑は鎌倉漱石の会を創始し代表であった鎌倉在住の内田貢氏が京都にもと考えられ実現したのでした。

 昭和42(1967)年2月9日(旧暦では1月5日)は、漱石生誕100年になるのでした。けれども除幕式は2ヶ月後の昭和42年4月9日、漱石生誕100年を記念碑として行われました。

 京都にて漱石句碑除幕式(京都滞留の宿屋跡の句碑。京都市御池通東端川畔)

 大正4(1915)年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。
「     木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
    春の川を隔てて男女哉   漱石       」


 寄付された方々、総計117名。発起人は漱石ファンの篤志家18名。秋山、阿部、石村、磯田、今来、内田、金子、北山、小石、小林、高山、津田、中島、西川、三浦、山口華、山口昌、山本、の諸氏でした。

 当時の高山市長のお名前もみえています。地元の京都を主として全国から集まった篤志家の寄付金で建立した比叡山の形の八瀬・真黒石の漱石句碑。京都を代表する発起人の中島氏は祇園甲部の取締役でした。

 北山氏の司会、鎌倉円覚寺帰源院富澤住職による禅式の「開碑香語」。多佳女のお孫さんの磯田日出子嬢の序幕。小林氏の「春の川」句朗読。内田氏の経過報告。京都市文化観光局長の石堂氏の祝辞もありました。

 この日は春雨のなかに句碑はしっとりと、黒く自然石のかがやきをもって漱石生誕100年顕彰が行われた一日であったといいます。

 その後、この句碑は京都漱石句碑の会から京都市に寄付されました。私は市の観光課に問い合わせたところ、つい先日以下の回答がありました。

 「京都女子大学、堀井氏により、平成9年3月10日、京都市へ寄付の申し出があり。寄付受納、4月10日。」

 ところが、当時はあった駒札も今はなく、管理も手がまわらないのでしょうか。京都市民が殆ど漱石句碑を知らない、気づかないといった現状なのです。たいへん残念なことと思います。

 なお、句碑の銘板には、書かれていない箇所があります。明治42年(1909)10月、漱石は2日間だけ大阪から京都に立ち寄っています。

 10月15日、朝鮮(満韓ところどころ取材)から船で下関港。下関発京都行きの一等寝台で大阪へ向かう。人力車で大阪朝日新聞社に行き、夕方京都へ。三条小橋西の万屋に宿泊。翌16日は嵯峨や北野天満宮などを見る。

 面白いのは、電車で四条の襟善に行って買い物をしているのです。その買い物とは半襟と帯揚げなど、鏡子夫人やお嬢さんがたへのお土産だったのでしょうか。漱石のやさしさが感じられます。そしてこの夜、東京に発っています。

 大正5(1916)年12月、満49歳で他界した文豪の晩年は、津田青楓・西川一草亭をはじめ祇園のお多佳さんなどのはんなりとしかも心こもる交流に、京都が現実の生活感を示していたと考えられます。

 それは、「風流」を愛した日々ではなかったのでしょうか。



参考文献

・小林孚俊氏の私家版『漱石と多佳女』(昭和61年4月9日)
・内田貢氏の「夏目漱石と帰源院」
・荒正人氏の「増補改訂・漱石研究年表」

関連記事:
新聞記者になった夏目漱石の「京都」
京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々
昭和42年4月、京都に漱石句碑建立。画像は小林孚俊著『漱石と多佳女』より

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[28647] 思い出
名前:椿伊津子
日時:2007/06/21 00:29
田中龍作さま


思い出していただき嬉しく存じます。
欅の大木が並木として見事な景観をつくっていたお池通り。地下鉄工事によりみな消滅してしまいましたね。


祇園のお茶屋にもお詳しい龍作さん。

>京都の風流を愛した龍作 名取りさんに癒された日々


タイトルを見て思わず微苦笑…。龍作さんってこんなお茶目な方でしたのね(^。^)。敏腕記者のもう一つの顔なのでしょうか。


漱石はいわゆる茶屋で遊ぶ旦那衆ではなく、お多佳さんとも謹厳な付き合いをした男性でした。気むつかしい面はありましたが女性を性ではなく人格として見ていた処が漱石だと思います。


この次はこうしたことに触れて拙文を書くつもりですがちゃんと書けますかどうか。ご叱正のほどよろしくお願いいたします。
[28646] 未見であっても 未知ではなく
名前:椿伊津子
日時:2007/06/21 00:10
岡田様

過分のおことば、恐縮でございます。同じ京都に住しながら未見のお方。でも未知ではございませんね。こうして書き物を通じて心の交流ができますのは、有りがたいことと思います。
利休さまが「直心の交わり」を茶道の極意とされたことを思い浮かべます。岡田様も折りあればそうした催しにもお出かけくださいませ。お書き込みありがとうございました。
[28645] すっかりご無沙汰
名前:椿伊津子
日時:2007/06/20 23:59
矢山様

すっかりご無沙汰しておりましたのに、よく思い出してくださいました。
漱石がとても身近に感じられると仰って頂きとても励まされました。ありがとうございます。

漱石作品は2度楽しめるといわれておりますね。昔読んだことと人生経験を得た今読むのと。なにぶん非力な私ゆえどんな漱石先生が書けますかどうか。どうぞ引っ張ってやってくださいませ。
[28630] 京都の風流を愛した龍作 名取りさんに癒された日々
名前:田中龍作
日時:2007/06/19 22:13
椿さま、

 お元気そうでなりよりです。
 
 小生、勤務の都合で京都には出たり入ったりがありました。御池通りのケヤキ並木があった頃も、地下鉄工事でなくなった後も両方を知っております(御池のケヤキは小生、大好きでした)。それで思うのですが、川端康成には京都がしっくりきます。

 
 ところが、読んでいて漱石の描く京都はなんとなくしっくりきません(勝手に小生がそう思うだけです。すみません)。

 
 川端康成は甲部に行きつけのお茶屋(たしか『富家』とか何とか・・・。店構えは今でも思い出しますが、屋号は正確には・・・)がありましたが、漱石には行きつけはなかったような記憶があります(小生の取材によると〜笑〜)。

  
 多佳女の世代の芸妓さんが話す「京ことば」は、確かにはんなんりと美しいものだったと思います。今となっては、後襟にマルイの印が入った黒紋付を着ることを許された、芸妓さんが辛うじて「京ことば」を操るくらいですか。
 
[28629] たまには優雅な文章を
名前:岡田克敏
日時:2007/06/19 22:10
読むのもよろしいですね。柄にもなく、ですが。
いつも攻撃や揶揄、皮肉、冷笑の詰まった文章ばかり接していると(書いている本人がいちばん問題なのですが)、なかなか優雅な気持ちにはなれません。


昭和42年の18人の篤志家による漱石句碑建立のお話、はるかな昔の、のんびりした時代の一面を感じます。
[28628] 椿さま、こんばんは
名前:矢山禎昭
日時:2007/06/19 21:18
お久しぶりです。しかも前から手がけておられる漱石のお話で、とても懐かしく玉稿を拝見しまた。

ぼくは中学生のとき「坊ちゃん」と「吾が輩は猫である」と読みました。「坊ちゃん」と「三四郎」はそのあとも何回か読みましたが、どの程度味わって読んだかとなると
あやしいものです。

しかし、漱石が東京大学の職を辞して朝日新聞に入ったのが40才のときと聞いて急に親しみがわいてきました。ぼくもその歳を遠い昔に過ぎて、椿さんの紹介で読む文豪がとても身近に感じられます。
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