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コラム

学力低下は歓迎すべし。いったい何が悪いのか?

広岡守穂2007/12/08
成績の良し悪しによって、過剰な優越意識と劣等感が植え付けられるような状況をなくし、だれもが自分に自信を持ったり自分を好きになったりできるようにする。それこそが教育の役割だと思うのだ。
日本 教育 NA_テーマ2
 OECDは2000年から3年ごとに学習到達度調査を実施している。対象は15歳の子どもたちで、日本では高校1年生に当たる。この調査で、日本の高校生の学力が低下している。12月5日、新聞各紙の紙面に「学力低下」の大きな文字が躍った。

 結果の発表を待っていたかのように、翌日、文部科学省は新指導要領の前倒し実施を発表した。文部科学省はゆとり教育からの転換を急いでいるようである。

 だがそもそも学力低下のどこが悪いのだろうか?高校1年生の学力が下がったからといって、なにを心配しなければならないのであろうか?

 わたしは学校教育には3つの機能があると思う。

 まず第一に、これからの科学や技術の発達をになう優秀な頭脳や、個性豊かな芸術的才能を発掘し育成すること。ただしそういう人材はごく一握りであり、学校はかならずしもそれに成功しない。もし真の英才を輩出したいと思ったら、場合によっては早期から独創性をやしなう英才教育が必要だろう。そもそも詰め込み教育によってそういう才能を伸ばすことは不可能である。

 起業家、芸術家、真に独創的な科学者、そして政治家などは、学校教育によってつくられるものではない。平均の学力が多少上がろうと下がろうと、そんなことは何ら関係ないのである。

 第二に、社会のことがわかり、勤勉で、かつ秩序に対する順応性の高い人びとをつくること。毎日毎日、何時間にもわたって、おとなしく授業を聞くという習慣をつうじて、また集団生活をつうじて、子どもたちは日本社会で生きるために役立ついろいろな知識を身につける。そして同時に、子どもたちの性格はそのような鋳型にはめられていくのである。

 この点は日本の学校教育は見事に成功している。日本人はよく働くし、礼儀正しいし、知識も豊かである。あんまり見事に成功したので、順応できない仲間に対するいじめがはびこっているほどである。

 第三に、学校の成績の良い人間が偉いという価値観を植え付けること。日々のペーパーテストや受験勉強をつうじて、人びとは知らず知らずのうちに、優等生に対するコンプレックスを植え付けられるのである。

 この優等生たちは、第一にあげたような本当に文明文化を進歩させる才能を持つ人びとではない。いわば二流のエリートである。おっと、二流と言ったら失礼になるかもしれない。超一流ではない、と言っておこう。ところが彼らは、ちょっと過剰なプライドをもって社会人になる。医者や法律家になり、また大企業とか中央官庁とかに就職して、人生の成功者(パワーエリート)然としてふるまうのである。そして他の人たちは、うっすらとした劣等感を抱きながら、彼らが社会の中心にすわることを受け入れている。だって、彼らは学校時代、勉強ができたのだから、と。こういうところが学歴社会の学歴社会たる所以である。

 学歴社会でいちばん利益を得ているのは、このような二流の、いや、もとい、超一流でない優等生たちである。彼らは文明文化の発達には貢献していない。せいぜい文明文化の秩序維持に貢献しているだけである。そして学力低下に敏感に反応するものがいちばん多いのはこの人びとである。

 さて、と。わたしはゆとり教育賛成派である。上にあげた第一と第二の機能を維持しながら、第三の点、つまり成績の良し悪しによって、過剰な優越意識と劣等感が植え付けられるような状況をなくし、だれもが自分に自信を持ったり自分を好きになったりできるようにする。それこそが教育の役割だと思うのだ。学力低下、おおいに歓迎すべし。一喜一憂すべからず。

ご意見板

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[31655] 学校教育の社会的機能を考えたら
名前:広岡守穂
日時:2007/12/17 17:00
山口さん、すばらしいことば、ありがとうございました。
 ところで、わたしがこの記事を書いたもともとのねらいは、OECD学力調査の結果が発表されたのを受けて、間髪を入れず文部科学省が新指導要領の前倒し実施を発表したことに警鐘を鳴らすことでした。学力平均が多少上がったり下がったりすることよりも、学校教育が果たしている社会的機能を変える方が余程大切だということに注意を喚起したかったのです。
 でも案に相違してご意見板では、学力低下を歓迎すべきか否かに議論が集中しました。まあ、タイトルがタイトルでしたから、無理もないことだったと思います。この点では、わたしとしては、いままでの学校教育のあり方を変えないままに学力向上をめざすのは百害あって一利なしと言いたいだけです。だから「一喜一憂すべからず」です。
 ただし山口さんや成川さんから書き込んでいただいたように、子どもの自尊感情をそこねるような教育はおかしいという点では、賛同の書き込みが多かったことに意を強くしました。多くのかたが言うように、子どもの自尊感情と学力には直接関係がないというのは、その通りでしょう。だけど、です。新指導要領の前倒し実施は、子どもの自尊感情をたかめるような方向に働くでしょうか? わたしにははなはだ疑問です。逆の方向に働くのではないでしょうか?
 学校教育の社会的機能という点を考えるとき、もっとも重要なことはなにか。それは、新しい世代の人材を社会的分業のさまざまな場所に、適材適所で送り込むことであり、そのときに親の経済力とか社会的地位とかに左右されず、子ども自身の能力と希望によって子どもが自己実現の機会を手にすることができるということです。
 ところが現実には、すでにだいぶ前から東大生の親の平均所得はほかのどの大学よりも高くなっています。学力の高い高校生は、いまや猫も杓子も医学部を志望しています。適材適所どころか、学力偏在が着実に進行しています。
 学力ばかり気にする人たちが、どういうことになっているか、その状況をしっかり見極めたら、多くの人がわたしとおなじように「学力低下歓迎すべし」と叫びたくなるのではないか。わたしはひそかにそう思っています。 
[31625] 返信
名前:山口一男
日時:2007/12/15 10:30
  広岡さん、最近ある人から聞いたすてきな言葉に

I know there is a strength in the differences between us; I know there is a comfort where we overlap.

というのがあります。アメリカのフェミニストシンガーソングライターーのAni Difrancoの歌の歌詞だそうです。私たちの違いを強さだと私は知っている。そして私たちに重なり合うところに安らぎがあると私は知っている。

   西山さんという「尊重しないことの連鎖」も、人々は他者との違いを我々の強さと思い、重なりあいと安らぎと思えるなら、少なくなっていくのではないでしょうか。最近「自分らしさ」を強調し、教育者で子供にもそう教える人も増えています。でも人の目に映る自分の姿が貧しければ「自分らしさ」などといわれても、子供は突き放されたように思うだけです。自分らしさの前に、子供に皆に認められている自分がある、人と自分は違うけれどもたくさん重なってもいる、そして重なっている人たちに認められるのは嬉しいし、もっと認められるよう努力したい。そう思える社会が大切だと思います。そういう社会性の中からこそ、世の中に貢献する個性が自然に生まれてくるのだと思います。教育は、そういうことに手助けをする仕事で、知識を与えるのはその手段であると思います。また偉そうなことをいってしまいたが。
   
[31594] 子供の目線で
名前:成川順
日時:2007/12/12 23:10
 生きる力をつける、それが教育です。学力はその一部に過ぎないので、今回の結果はあまり気にすることもないのです。しかし、学力低下を歓迎するというのは、やはり暴言です。


 人間という動物は、自分をうまく表現できないとき苦しいのです。学校という場所は、基本的には学習するところだから、学力がないととても苦しいのです。プライドの問題でなく、もっと本質的に苦しいのです。地獄なのです。学力低下を歓迎するということは、苦しい子供が増えることを歓迎するといっているに等しいのです。


 低学力の子にも、向上心はあり、賢くなりたいのです。ただ、そのきっかけがうまくつかめず、もがき続けているのです。大人がそのきっかけを上手に与えてやれば、食いついてきます。1番簡単なやり方は、できたときにいっぱい褒めてやるのです。表情がぱっと明るくなるのがわかります。楽しくなれば、自分からどんどん学習するようになります。
[31593] わが意をえたりの思いです
名前:広岡守穂
日時:2007/12/12 22:44
山口一男さま
 ご意見ありがとうございます。
 わが意をえたりの思いです。おっしゃる通り「競争があったり、順序がついたり、という問題と自尊心や自信の育成の問題は、別問題」だとわたしも思います。本来なら。
 日本の場合、子どもの自尊感情が育たない。悲しいかぎりです。人びとの自尊感情を抑圧しているものがあって、それとおなじ要素が人びとを競争にかりたてているように思います。そこをなんとかしたいというのがわたしの思いです。そのためには、まず学力低下だの上昇だのに一喜一憂するようなハイテンションの右往左往をやめるべきだと考えるのですが、そこが山口さんとはちがうのでしょうね。
 この点は掘りさげていくと、学校時代に学んだことがはたしてどれだけその人の人生に役立つかということに行き着きます。わたしは読み書きそろばんと外国語のほかはあまり役立っていないのではないかと思うものですから、学力に対する関心がうすれるのでしょう。
 ビジネスマンも政治家も芸術家も、知識よりももっと大切なものを必要としており、それはいわゆる学力とはちがうものだという思いが強いのです。
 と、まあ、こういうわけです。
[31589] 日本型コミュニティー固有の問題
名前:西山聡
日時:2007/12/12 13:04
 山口さんの[31585]を読んで気づいたのですが、「子どもたちの自尊心を奪い、弱い者を攻撃(いじめ)をすることに痛みを持たない子どもが育つ」ことには、たしかに「順序が出来ること自体とは別のメカニズム」が働いているような気がします。


 その「メカニズム」は、人によって言い方はさまざまでしょうが、日本型ムラ社会というような何かであり、私には、斉藤学が(私には名著と思われる)『男の勘違い』で問題視しているような(日本独特に悪く特化した)「男らしさの病」であるような気がします。


 なるほど、山口さんがいうように、たぶん、アメリカのコミュニティーは、子どもの存在や自尊心を尊重するように働いているのでしょうが、日本のそれは、私の考えるところ、おそらく逆に働き続けていて、いまや最悪の状態になっているのかもしれません。


 JanJanが(総体として、総体の)マスコミを批判するのはまあ、いいとして、(日本では概して)人の親はえてして勤務先から尊重されていないし、その親は教員を尊重しないし、文科省(中央)は、学校の概況を尊重しないし、地域は(総体として、総体の)学校を尊重しない。(ような気がします)


 そういう「尊重しない」の連鎖状況をどうにかしないとなあ、と、山口さん(&広岡さん・斉藤学氏)に気づかされたような次第です。
[31585] そこは広岡さんと同じだけれど
名前:山口一男
日時:2007/12/12 09:03
  広岡さん。日本の子どもの自尊心の低さを憂う。それは同感です。例えば援助交際など、なぜそこまで自分を貶める子が今の日本で育つのか嘆かわしいというより悲惨です。少し前のベネッセ教育研究所(現在はベネッセ次世代育成研究所の)小学校5年の国際比較では、日本の子供は自尊心だけでなく、自分が「正直だ」、「親切が」、「勤勉だ」、「勇気がある」などの自己評価欧米はもとより、韓国などと比べても格段に低く肯定的回答は10%程度です。アメリカはほとんどすべて50ー60%が肯定、欧州でも40%程度肯定です。フィンランドですが高校生で招待学校の先生になりたいという人が25%程度もいます。将来を担う人を育てるのは大切な仕事だからと。高校の先生がよき職業人のロールモデルになっているのです。
  でも、それらのことと学力は下がっても良いということとは、どう結びつくのでしょうか? 学力を気にしなければ自尊心がますのでしょうか。
  子どもたちの自尊心を奪い、弱い者を攻撃(いじめ)をすることに痛みを持たない子どもが育つのは、何故でしょうか。順序が低いことが軽蔑の対象になったり、順序が高いことで偉いように思ったりという精神性は、順序が出来ること自体とは別のメカニズムなのではないですか。典型的競争社会といわれ、貧富の差も日本よりはるかに大きいアメリカの子どもたちは何故、自尊心が高く、自分を「親切で」「正直で」「勤勉で」「勇気がある」と思う子が世界でも突出して高いのでしょうか? それは、一人一人の子どもが、自分が学校や社会で大人や仲間たちから尊重されていると感じるからではないでしょうか? 日本の中学生や高校生の子どもの親で、自分の子どもの同級生の将来の夢や希望を知っていて、その夢がかなえられたら良いと思っている人はどのぐらいいるでしょう。0%に近いのではないですか。アメリカでは結構多いのですよ。コミュニティーが生きているからです。
  逆にわが国では、他者への否定的な言葉(「うざい」「きもい」など)が子どもの世界でも氾濫しています。親も他人の子どもなど、どうでも良いと思っているが多いでしょう。それでも、アメリカは個人主義の国、日本はそうではないといわれます。でも人情ドラマにみられる日本的な他者への思いやりや暖かさは現実社会からは消えつつあります。子どもは人の目に映る自分の姿が誇らしいものだから自分に自信と自尊心がうまれるのではないでしょうか。競争があったり、順序がついたり、という問題と自尊心や自信の育成の問題は、別問題だと思います。社会が、学校だけでなく、大人たちすべてが子どもたちとプラスにかかわることが、すくなくなってきたからではないでしょうか。 

 
[31583] 知恵は徳、無知は損
名前:忍野タカユキ
日時:2007/12/12 00:40
国の教育政策が良いとか悪いとか、責任問題のように語られますが・・・。

個人の資質として自分を取り巻く世の中のことを貪欲に知りたいと思わないのか?人として生きていくために必要でしょう。
国語、算数、理科、社会、ついでに芸術も体育も外国語もその為に学習するんじゃないの。
それこそが学習意欲だし、その為に先代から学ぶのだし、受け継いだ知識を次世代に恩返しするのが教育じゃないのか?
バラエティ番組のタレントのみならず、己の無知を恥じない人たちを理解できません。
知恵を得るための土壌は日本にはあります。学校以外にもね。その気があればどこでもどんな年齢でも学習できると思います。
[31582] もう一度論点を繰り返します。
名前:広岡守穂
日時:2007/12/12 00:33
もう一度、申し上げたいと思います。
わたしは日本の子どもたちの自尊感情が低いことを憂えています。これこそ日本の教育の根本問題だと思いますが、そのことに言及がないのは非常に残念です。
佐藤弘弥さんからは「広岡氏一流の者の言い方」というふうにしかとらえてもらえませんでした。残念です。教育がコンプレックスをもつ子どもを大量に作っているのではないか、という問題提起なのです。そのことを一刀両断に切り捨てるのではなく、もう少し真剣に考えていただけませんか?
 佐藤さんは12月11日付のご自分の記事に、教育における二極分解が問題であること、そして「中流の復興」をめざすべきことを主張しておられます。人間には偏差値で測れない多様な能力があります。二極分解といい、中流の復興といい、そういう多様な能力を無視した言い方ではないですか。どちらも優秀=劣等をはかるひとつのものさしを前提としての議論のように思われます。わたしはそのような、ひとつの尺度で順番をつける発想そのものが子どもたちの自尊感情をそこねているのではないかと申し上げたいのです。
そもそも優秀さということは学校の成績では測れない、深くて広いものです。家事ができたり、仲間を説得できたり、子育てができたり、お年寄りや妊娠している女性や障害のある人をいたわる気持ちをもったり、そういうこころを持っていることが、なまじの読解力やら科学的リテラシーやらなどより、よほど大切です。というか、こんな言い方はバカバカしいですが、他者のこころがわかるということこそ、まさしく読解力の基礎でしょう。
このあいだも学生対象にいじめについての調査をしたところ、小中学校時代に加害者としていじめを経験した学生は、なんと60%にも及びました。ものすごい数字です。この背景には、ともすれば過度の同調性をおしつけようとする日本の教育の問題が潜んでいるのではないかと思います。その同調性と偏差値に象徴される競争至上主義の発想は同根なのではないかと推測します。そこを変えていかなければ日本人はもっと良くならない。PISAの順位なんかどうでもいいではないですか。文部科学省にいいように利用されているんですよ。
今度のPISAでトップランクの成績だったフィンランドの学校をご存じですか? 生徒は授業中にお菓子を食べたり、黙って教室から出て行ったりする。徹底した能力別教育で、できない生徒はどんどん落第させる。だから個々の教室を取ると授業について行けない生徒はいない。そして子どもが家事手伝いをするのは当たり前。それで学力は世界最高です。
きっとこれからしばらくフィンランドの学校教育が注目されることでしょう。
しかしわたしはフィンランド流が良いとは思わない。というか、PISAの成績が良いからなどという理由で、他国の教育のあり方を学ぼう何ていう人の気が知れない。

 きだひそみさま。
論旨を誤解して、すみませんでした。
ごめんなさい。
[31577] あらためて記者の総論を支持します
名前:きだひそみ
日時:2007/12/11 22:34
広岡さんはほかの意見といっしょくたにしておられますが、わたしは総論に限定して広岡さんに賛成しています。

学習指導要領にかかげられている「生きる力」にも賛成です。わたしの疑念は、文部科学省がそれをいうか、ということにつきます。ゆとり教育の見直しが文部科学省の決定で全国一律におこなわれることに違和感があります。

学力低下をめぐる論調には、かつての経済成長についてのそれをおもわせるところがあります。経済成長がさまざまな問題をも解消してくれることを期待し、経済成長を優先したときいております。部分的にはそれが大成功をおさめましたが、そのときに先送りされた問題が深刻な現状をまねいているとかんがえます。現在、官僚や政治家の責任を問う声は大きいのに、国民がみずからの責任を反省しようという声があまりきこえません。これは、国民に実質的な主権がなかったということを反映しているのではないでしょうか。教育改革についての論調には、これに似たところがあります。

国益をかかげた国策としての教育改革は、国家による教育権の支配を前提にしています。それを国民が期待して支持することは、国民一丸となって邁進した経済成長とおなじ成功と失敗をもたらすのではないでしょうか。

子どもの学力低下や学習意欲の低下は、学校の内側よりも外側の問題を反映しています。子どもや学校のありかたよりは、大人と社会のありかたを反省しなければならないのです。学力低下は、わたしたちの対応いかんでは、社会がよくなる契機になるとおもいます。

この意味で、広岡さんの「日本人はテンションが高すぎます。一喜一憂すべからず」という結論を支持します。学力は低下したほうがよいとか、現在のゆとり教育がよいとかいうつもりはありません。
[31573] 順位の問題ではないが
名前:山口一男
日時:2007/12/11 06:49
  広岡さんは何故一位でなければ成らないか、10位ではいけないのかと書いていますが。実際に学力だ下がっている、学習意欲が落ちている、科学などに深く興味を持つ生徒が減っている、などのことと順位が下がることと関係しているのです。順位だけで無く、標準化された点自体が下がっているのです。

  広岡さんはたゆとり教育が良いとされますが、ゆとり教育には観念(思想)だけあって、実際に教育の質を高めるためのきちんとした方法論がありません。ゆとり教育の総合学習が、子どもに学習への興味を増させたかと言うと、平均的には結果は逆の傾向です。苅谷剛彦氏の研究では、ゆとり教育の結果、教育の階層間格差は増加し、教育の機会の不平等も増しました。大昔の東京都の学校群制度もそうですが、競争を減らし、生徒に楽にさせる制度を作ると、結局教育熱心な親や、財政的に他の選択の可能な親たちが、私立や塾を頼りにするようになるからです。

  大切なのは公共教育の質の改善です。今回のわが国学力低下も、平均以上の部分はあまり変わらず、平均以下の部分の降下に引っ張られた形です。一般庶民の受ける公教育の質が下がったせいです。またこの事実は「単に成績の良いものがより私立に行くようになったから、公共教育卒業者の学力が見かけ上、下がっただけだ」という議論が正しくないことも示しています。平均以下と以上の区別は、公私の学校の区別と無関係ですから。親の富裕・貧困にかかわらず、誰もが受けられる公共教育、その質を「ゆとり教育」は下げてきており、庶民の受けられる教育の質が低下しているのです。だから公共教育に見切りをつけ、政府がバウチャー制度など私立学校支援策を考えるようになる。でもそうなったら、バウチャー制度も利用できない家庭の子どもはますます、良い教育から取り残され、家庭にとっての教育費用は平均的に上がり、親の不平等が、子どもの不平等を生み出す傾向はさらに増すと思われます。理想を考えるのは良いけれど問題はそこへの道筋です。
 
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