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OECDは2000年から3年ごとに学習到達度調査を実施している。対象は15歳の子どもたちで、日本では高校1年生に当たる。この調査で、日本の高校生の学力が低下している。12月5日、新聞各紙の紙面に「学力低下」の大きな文字が躍った。 結果の発表を待っていたかのように、翌日、文部科学省は新指導要領の前倒し実施を発表した。文部科学省はゆとり教育からの転換を急いでいるようである。 だがそもそも学力低下のどこが悪いのだろうか?高校1年生の学力が下がったからといって、なにを心配しなければならないのであろうか? わたしは学校教育には3つの機能があると思う。 まず第一に、これからの科学や技術の発達をになう優秀な頭脳や、個性豊かな芸術的才能を発掘し育成すること。ただしそういう人材はごく一握りであり、学校はかならずしもそれに成功しない。もし真の英才を輩出したいと思ったら、場合によっては早期から独創性をやしなう英才教育が必要だろう。そもそも詰め込み教育によってそういう才能を伸ばすことは不可能である。 起業家、芸術家、真に独創的な科学者、そして政治家などは、学校教育によってつくられるものではない。平均の学力が多少上がろうと下がろうと、そんなことは何ら関係ないのである。 第二に、社会のことがわかり、勤勉で、かつ秩序に対する順応性の高い人びとをつくること。毎日毎日、何時間にもわたって、おとなしく授業を聞くという習慣をつうじて、また集団生活をつうじて、子どもたちは日本社会で生きるために役立ついろいろな知識を身につける。そして同時に、子どもたちの性格はそのような鋳型にはめられていくのである。 この点は日本の学校教育は見事に成功している。日本人はよく働くし、礼儀正しいし、知識も豊かである。あんまり見事に成功したので、順応できない仲間に対するいじめがはびこっているほどである。 第三に、学校の成績の良い人間が偉いという価値観を植え付けること。日々のペーパーテストや受験勉強をつうじて、人びとは知らず知らずのうちに、優等生に対するコンプレックスを植え付けられるのである。 この優等生たちは、第一にあげたような本当に文明文化を進歩させる才能を持つ人びとではない。いわば二流のエリートである。おっと、二流と言ったら失礼になるかもしれない。超一流ではない、と言っておこう。ところが彼らは、ちょっと過剰なプライドをもって社会人になる。医者や法律家になり、また大企業とか中央官庁とかに就職して、人生の成功者(パワーエリート)然としてふるまうのである。そして他の人たちは、うっすらとした劣等感を抱きながら、彼らが社会の中心にすわることを受け入れている。だって、彼らは学校時代、勉強ができたのだから、と。こういうところが学歴社会の学歴社会たる所以である。 学歴社会でいちばん利益を得ているのは、このような二流の、いや、もとい、超一流でない優等生たちである。彼らは文明文化の発達には貢献していない。せいぜい文明文化の秩序維持に貢献しているだけである。そして学力低下に敏感に反応するものがいちばん多いのはこの人びとである。 さて、と。わたしはゆとり教育賛成派である。上にあげた第一と第二の機能を維持しながら、第三の点、つまり成績の良し悪しによって、過剰な優越意識と劣等感が植え付けられるような状況をなくし、だれもが自分に自信を持ったり自分を好きになったりできるようにする。それこそが教育の役割だと思うのだ。学力低下、おおいに歓迎すべし。一喜一憂すべからず。 |