韓国の「英語学院」(日本で言う英会話学校・筆者撮影)
いま韓国では新政府の英語教育の政策に関する論議が活発である。李明博(イ・ミョンバク)大統領の指示の下、英語教育(英会話)を強化するという方針が政府関係者から公式に発表されたからだ。ゆえに、多くの学生が英会話を学ぶ目的や入試準備のため、新たに学院(日本でいう塾)などに登録する風景が見られる。
経済力のある家庭では幼い子供を煽り立て、アメリカなどに早期留学に行かせている状況で、現実を注視すればするほど、どれほど英語教育ブームに騒いでいるかが実感できる。まるで、英語を学ばないと碌な人間、優秀な学生としては認められないような雰囲気だ。
現政権は、教育にも競争と市場論理を適用し、国際社会に通用する人材を育成するというふうな教育指針を念頭においているらしい。それで、その目標を達成するため足掻いているようだ。しかし、国家統制を排除し大学入試の自律権を保障し、私的な教育出費を減らすという当初計画とはまったく矛盾しているように見える。
聯合ニュースなどの報道によると、昨年の場合、国内の私的な教育費は総額おおよそ20兆400億ウォン(約2兆3076億円)。政府予算の10分の1ぐらいの金額だから、学歴社会の韓国では各家庭で福祉や文化に掛かる出費を節減し、子供の教育に投資しているわけだ。昨年すべての大統領候補者が、父兄の苦労を減らし、公教育を強化するという公約を提示したのも、その理由にほかならない。
それなのに、公教育を強化するどころか、いわゆる「英語没入教育を」というので、国民はあぜんとせざるをえない。大統領自らも英語ができれば国民生活がよくなるというようなことを述べたが、その発言に対しては、フィリピンとインド、あるいはパキスタンを例に反駁する論調が多かった。以前、中等教育機関は全ての科目を英語で授業を行うという話が出た時も、国民の間には「韓国はアメリカの属国か」と批判する声が高まっていたことを思い出す。
最近は英語科目だけを英語で授業を行なうという話が聞こえてくる。しかし、「教育哲学のない閣議」と言われるだけにいつどう変わるか分らない。夥しいほどの予算を使い、英語を自由に操る専門教師を多数養成するというから、英語教育が強化されるのは確かだろう。
問題は、学校教育だけでは英会話が上達しない今までの問題をどう乗り越えるか、というふうな慎重を期すべき検討のないまま、ともかく汲々と意義のみを強調する政策を国民に発表し、膨大な国民の税金で支援をしようとするところにあろう。そして、公教育不在の現実と、教育的な効果を考慮せず、英語教育の必然性だけを訴える点にあると思われる。
何より、そもそも全国民に英語教育の重要性のみを訴える発想に合点がいかない。韓国は英語文化圏に属してもいなければ、英語圏とはまったく異なる環境、伝統、文化を持っている東洋の国である。韓国人にとって英語は、ドイツ人やフランス人が学ぶようにすぐ熟達できる言語ではない。文章の順番も文章の構造も違うわけで、何十年と英語教育を受けても日常会話を英語でこなせる人は少ない。
それにも関わらず、もっぱら英語に重点をおき、全ての学生に英語での意思疎通を強要する根拠は何か。説得力が乏しいのに、全国民に英語至上主義を披瀝する理由は一体何か。大学にも英語専門学科はだいぶある。英語が好きな人は英語を学び、日本語が好きな人は日本語を習得すれば、それで十分ではないのか。
独立記念館の彫刻像(独立と自由のシンボル)
フリー素材集より
南大門を焼失したとき如何に我々の文化や伝統、そして言語を守る教育が大事なのか、私は実感せずにはいられなかった。自国の歴史と文化にも詳しい識見がなく、母国語も碌に使えない大人が多いのに、英語教育ばかりを叫ぶのは本末転倒ではないのか。
韓国には、アメリカに進出するため英会話を学習する人や、英語圏国家で留学経験を積んだ英語専門家がだいぶいる。いろいろな統計を見ると、アメリカの大学に留学している韓国人の学生数は、他国と比べて上位を占めている。英語教育を強調しなくても毎年専門家は養成されているのに、そのように騒いでいるので私は理解に苦しむのだ。
英語を駆使する能力は決して、国家が急速に発展する要素でも、国民生活が改善される要素でもなかろう。英語が常用語でもない分断国家の韓国で、統一と文化、あるいは歴史や国語の教育より英語教育優先という論理が罷り通っている現実に、私は悲哀を覚えざるをえない。
かつて日本の白樺派の、
思想家、美術評論家・柳宗悦は、朝鮮半島の文化と美術などに深い関心を寄せ、朝鮮に関連する多くの言葉を書き残した。1919年書いた『朝鮮人を想ふ』の中では、いつも他国の影響や脅威から自由になれなかった朝鮮の歴史と芸術の特徴について触れ、多くの朝鮮人が【愛情を飢え求めている】という点を取り上げながら【美しく長く長く引く朝鮮の線は、実に連々として訴える心そのもの】と述べた。
また『朝鮮の友に送る書』では朝鮮美術について語り、【悲しさの美しさ】、【親しげな美しさ】と表現している。さすが見事な表現だと思うが、隣国・日本の作家もすでに90年前に指摘しているのに、我々が我々のものを大事に思わず、他国のものを優先視するならどうなるだろうか。南大門もそのような過誤で焼失したのではないか。
目に見えるものは有形文化財、目に見えないものは無形文化財という。従って言語は無形文化財である。しかし、言語はその国の文化、その国の魂を象徴する媒介体だと思う。あくまで英語教育は、もっとも優先すべき母国語と母国文化の教育の延長線上に考えられなければならない。
「朝鮮の線」(お寺の屋根)フリー素材集より
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