王のモクテスマ2世をはじめアステカの住民が不安をつのらせた背景に、ケツァルコアの伝説があった。ケツァルコアは500年ほど前、自らの手で王宮を焼き、少数の供を連れて東の海へ去っていったが、去るにあたって自分の生まれ年であるセー・アカトル(1の葦の年) に「アイ・シャル・リターン」と予言したという。
ケツァルコアの浮き彫り(ショチカルコ遺跡より)
ところで、王のモクテスマ2世をはじめアステカの住民が不安をつのらせた背景に、
ケツァルコアの伝説があった。
サアグン等によれば、こんな言い伝えである。
そのころから500年も昔、この一帯はトルテカ王国の支配下で、トピルチン・ケツァルコアという王が出て、その統治下でトルテカは繁栄を極めた。トルテカは人々のあこがれのシンボルだった。一抱えもするようなカボチャがとれ、木登りできるほどトウモロコシは育ち、色とりどりの綿がなり、美しい羽の鳥たちが飛来したという。
彼自身非常な金持ちだったが、人々はたいそう豊かでたらふく食べ、小さなトウモロコシなど、薪代わりにするほどだった。しかし、このトルテカの栄華にも終わりがきた。悲劇的だが寓意的でもある結末だった。
「汚いジジイだ。帰れ。帰れ」
王宮を西日が赤く染めるころ、老人(
テスカトリポカという神が姿を変えたものと言う)が王宮にやって来た。衛兵たちが追い返そうとするのを、「お客様に対して失礼ではないか。さ、さ、どうぞ、どうぞ」と、
ケツァルコアは彼を招き入れた。
老人は王の身体の具合が悪いのを聞いて、「ちょうど、ここによく効く新しい薬を持っております。ぜひ、お試しくだされ」と、壷に入った水薬を薦めた。舐めてみると、体中が温かくなって元気が出てくる気配。
「もう少し、もう少し」と老人に勧められるまま、
ケツァルコアは壷の水薬をすっかり飲んでしまったのだが、これが実は最近開発されたばかりの新しい種類の酒だったから、その後大変な展開になった。
ケツァルコアはすっかり泥酔して、放歌高吟の末、巫女の1人を寝所に引っ張り込んで寝てしまったのである。
こうして、肉欲と飲酒の禁を犯した
ケツァルコアは大いに恥じ、自らの手で王宮を焼き、少数の供を連れて東の海へ去っていくのだが、去るにあたって自分の生まれ年である
セー・アカトル(1の葦の年) に「アイ・シャル・リターン」と予言したという。
(つづく)
ケツァルコア(ボルボン古文書)
ケツァルコアという神
ケツァルコアというのは、
ナワ語で「羽毛のヘビ」を意味する。ヘビ信仰は世界的なもので、
メソアメリカでも非常に古くから信仰されていた。緑色に輝きながら空を飛ぶヘビ。美しくも神秘的!
もともとは豊穣をつかさどる神だったが、それが時とともにほかの役割をかねるようになって、暁や宵の明星、つまり金星の神にもなり、雨を告げる突風の神にもなった。
先ほどの王にこの名がついていたのは、それを主宰する神官長でもあったからだろう。ところがこの王が死後神格化されて、やはりケツァルコアと呼ばれるようになったから、しばしば混乱を招くのである。
ところで、これは当時の状況を推測する上で非常に重要なことだが、無学な一般住民と、
カルメカックで教育されたモクテスマたち王侯貴族とでは、この神にたいする反応に雲泥の差がある。
民衆にとってケツァルコアは、たくさんいる神の1つにすぎないが、モクテスマたちにとっては特別な神で只の神ではなかったのである。
それは先ず、彼らが模範とするトルテカの主神であり、トルテカの血をひくモクテスマの祖先でもある。また、カルメカックの保護神だし、賢人たちでその神に帰依する者が多い。同盟国テスココの王ネサワルピリもそうだし、テノチティトラン内部にも少なくない。
彼らは口をきわめてその神の偉さを強調する。モクテスマも、それに影響されないわけにはいかないのである。中央広場の主神殿の正面に、特別にこの神の社を新築させたほどだ。
だから、ケツァルコアが軍隊を率いて帰ってきたといううわさを聞いたとき、彼は恐怖、畏敬、親愛の情が入り交ざった複雑な気持ちにとらわれたに違いない。ただ嫌悪したとか、恐怖を感じたというような単純な感情ではなかったのである。
ほそく
(1)テスカトリポカがケツァルコアを酔わせて刺殺したのではなく、彼自身の反省にまかせ、結果的に追放したという点に注目。知的でシャレていると思いませんか?
(2)最近までケツァルコアは人身犠牲に反対する神という説が信じられていたが、現在では、それはスペイン植民地時代に作られた虚説という見方が有力である。
チチェン・イツァーにある球技場の彫刻などがその証拠。
(3)
チチェン・イツァーには、はるばる2000km西から遠征して来たトルテカ軍が、マヤ人に作らせた建造物がたくさんある。春分の日に階段に蛇身が現れるククルカン(ケツァルコア)のピラミッドなどが有名。(関連サイト:
http://www6.plala.or.jp/nagaku/site-chichen-kukulukan.htm)
チチェン・イツァー:NAGA K’U奥義学校(マヤ文化)提供
(4)トピルチン・ケツァルコアの誕生年が、
セー・アカトル(1の葦の年)であったということについては確証はない。アステカを征服したスペイン人たちがやって来た年がセー・アカトルだったから、そこから逆にそうされたのかも知れない。
(5)ケツァルコアは肌が白く髭を生やしていたという言い伝えがあり(これは事実)、そのため、スペイン人は余計ケツァルコアと関連付けられた。
(6)この時代を日本史の中に位置づけると、京都が応仁の乱(1467−1477)で灰燼に帰し、日本全土が戦国時代に入ってそのたけなわの頃である。伊豆から相模を平定した東国の勇、北条早雲が破格の長寿を全うしたのが1519年、丁度スペイン人たちがコルテスに率いられて、アステカ征服にやってきた年である。織田信長も豊臣秀吉もまだ生まれていない。
日本史の中で特に重要な出来事は、鉄砲が初めて伝えられた1543年と、キリスト教が伝来した1549年であろう。日本がそういう世界史の新しい荒波を受ける2、30年前、鉄砲とキリスト教によって国ごと抹消された文明が現実にあったのだ。