5月18日は、「5・18 民主化運動」(「光州事件」)28周年に当たった。光州市内のところどころで記念行事が開かれ、光州市民と各地から来た人々が1980年5月の意味を噛み締めた。そこで私も、しばらくこの場を借りて今一度、1980年代はじめの韓国の民主化について振り返ってみたい。
5・18民衆抗争追悼塔前の銅像(筆者撮影)
さて、軍部独裁政権を率いた朴正煕が、自らの部下・中央情報部長の銃弾で射殺されたのは1979年10月26日。いわゆる10・26事件だが、これによって全国に戒厳令が宣布された。ちょうどそのとき、政治の前面に登場した人物がほかならぬ全斗煥。当時、崔圭夏・大統領権限代行と鄭昇和・戒厳司令官は、軍部の圧力に屈服し、全斗煥少将を合同捜査本部長に任命するのである。
保安司令官・全斗煥は、維新権力が崩壊した時点の軍部支配下で、合同捜査本部長にもなり、内外の注目を浴びた。権力移動のような非常の際には目立つ人物が出現するものだが、全斗煥はその権力の中心にいる代表的な人物であった。その時代の合同捜査本部長なら、保安・情報・捜査などの重要業務を統括する職責を任じており、軍部内でもっとも影響力のある人として知られていたからである。
全斗煥(「韓国語 wikipedia」より)
全斗煥は内閣を掌握するため、三つの処置をとった。第1、非常戒厳令の維持、第2、合同捜査本部の権限強化と活動領域の拡大、第3、憲法改正作業の遅延、がそれである。そのうえに国務会議に参加するため、自分を中央情報部長に任命するよう崔圭夏氏を脅迫した。彼がどれほど権力簒奪にあたって不法に統制を乱用したのか、強調するまでもない。
世論を操作するための言論統制も厳しかった。軍部の執権を正当化するための世論操作は、放送局や中央日刊紙の社長及び幹部らを対象に、接触と懐柔を通じて目に見える圧力として繰り広げられた。批判的な論調を禁じ、全斗煥の勢力に協調するよう、ありとあらゆるやり方でクーデターの陰謀は進められた。多くの言論はその抑圧政策に屈服せざるをえなくなった。
1980年2月には保安司令部内の「情報処」を復元し、機構を大幅に拡大し社会の各分野の階層に緻密な政治工作を展開した。一方、学生運動を粉砕するため空輸部隊を動員し、特殊訓練も行った。その悪辣な鎮圧ぶりには、当時の国民は怒らないではいられなかった。
どうして我々を「盲目的抵抗勢力」などとみなし、無法で社会から隔離し、弾圧するのか。警察のみならず兵力まで動員し、惨い仕打ちを繰り返す理由は何か。かつて日本の作家・小林多喜二もそのような心境で帝国主義の強圧に抵抗し、たたかい続けたのだろう。
多喜二らの、苦しみながらもゆるぎない闘争、そしてそれを制圧するために酷い弾圧とリンチを加えた権力。1980年はじめの韓国の状況は、多喜二の時代と似通うところがあると思う。日本では最近、多喜二を読む若者が増えているという。保守化している韓国の若者とは反対に未来に向かって前進する日本青年らの気概を感じる。
【作家小林多喜二の代表作「蟹工船」の売れ行きが好調だ。若い世代を中心に人気を呼び、コーナーを特設する書店も相次ぐ。凍える洋上で過酷なカニ漁や加工作業を強いられる男たちが、暴力的な監督に団結して立ち向かう昭和初期のプロレタリア文学。いまなぜ読まれるのか。
東京都中野区の山口さなえさん(26)は昨年夏、「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」で始まる「蟹工船」を書店で見つけて読んでみた。「小説の労働者は、一緒に共通の敵に立ち向かえてうらやましい」と感じたという】
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『今、若者にウケる「蟹工船」 貧困に負けぬ強さが魅力?』(朝日新聞・5月13日朝刊)
「格差社会」が流行り言葉になったいまの日本で、多喜二の作品を読む20代が増加していることは何を意味するだろうか。就職難が続く中、やっと見つけた職場では過酷な労働を強要され、しかもいつ解雇されるか分らない現実。そのような「共通の敵に立ち向かえ」る闘争心が彼らには根を下ろしているという証拠ではないか。
かつて石川啄木は、1910年に書いた『時代閉塞の現状』で当時の若者のことを心配し、【彼等の事業は、実に、父兄の財産を食ひ減(へら)す事と無駄話をする事だけである】と指摘したが、若者の就職難と貧困、そして労働問題はいまの時代にも解決されず、課題として取り上げ続けている。
それに正面から対抗しようとする若者の姿勢が多くの人に見出されているのだろうか。いま日本でそのような雰囲気が多喜二作品への共感を呼び起こしているようだ。人間解放と社会正義を実現するため、命をかけ権力に立ち向かった多喜二らの激烈なたたかいは、いまの青年にも蘇り勇気と決意を与えているのだろう。
1980年、軍部クーデター勢力に屈服せず抗った韓国の一連の民主化闘争も、そのような勇気と決意の下に行われた。そして、クーデター勢力によって、多喜二時代の残酷極まりない弾圧と拷問は、隣国韓国でも1980年当時に再現されたのである。
石川啄木(「ウィキペディア」より)
契機になったのが学生運動である。1980年はじめ、韓国の大学では戒厳令の解除と「維新残党打倒」をスローガンに、大々的な運動が展開された。毎日軍部と崔政府の陰謀を暴露し維新政権の独善と非行を告発する集会が開催され、組織的に民主化闘争を準備する段階に突入した。
最初、学生運動は過激な闘争を慎み、政治的集会やデモを自制する雰囲気も見られた。しかし、4月に入り兵営訓練問題が民主化闘争の課題として浮上、兵営訓練を拒否する闘争が本格化した。軍部は新聞や放送を通じ、学生らの安保意識の欠如を非難した。そして、各大学でのデモや籠城を集中的に報道するように強制したのもこの時期である。
深刻な局面に入った学生運動は、5月はじめ、ソウル大学が入営訓練を拒否する闘争を撤回し「戒厳令解除」、「維新残党退陣」、「改憲中断」、「労働三権保障」などの要求を叫ぶことによって本格的な政治闘争に変わった。高麗大学学生会長室では「総学生会長団会議」が開かれ、全国から参加した大学の学生代表らは全斗煥をはじめ、「維新残党」の退陣を求め共同声明書を発表した。こうした様子からその決議が如何なるものであったか、十分判断できる。
しかし、一方では軍部にクーデターの口実を与えないために、当分の間、校内のデモのみに集中するなど多角的な検討を行い、理性的に対応した。これが街頭デモを伴う全面的な民主化闘争に発展したのは5月中旬。街頭デモを主張した強硬派学生らの意思が、全ての学生に浸透した結果である。
(2につづく)