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コラム

韓国の民主主義、その1980年(2・完)5.18 民主化運動(光州事件)28周年

金正勲2008/05/21
1980年5月17日、全斗煥政権と戒厳軍は政治家、学生のみならず、多数の民主化運動の闘士を、小林多喜二の時代のような無法な暴力で検挙した。本来、敵を制圧するべき軍隊が、市民と学生を逮捕し暴力を振るう役割を果たした。
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韓国の民主主義、その1980年(2・完)5.18 民主化運動(光州事件)28周年 | 映画「光州5・18」でタクシー運転手のミヌが通った道(冬〜春) 筆者撮影
映画「光州5・18」でタクシー運転手のミヌが通った道(冬〜春) 筆者撮影
 1980年の初め、政治に対する国民の関心は、金大中、金泳三氏の競争にあった。1980年2月復権された金大中氏は政治活動をやり直すが、それによって2人の間に本格的な競争が始まったからである。しかし、2人の消耗的な競争に野党・新民党は分裂の危機にさらされ、軍部は政治参加の意図を表面に出すこととなる。

 当時2人は、学生デモや労働運動が極点に達しないと、軍部は政治に介入できないと見ていた。しかし、軍部は2人の葛藤を「醜悪な派閥の争い」と看做し世論操作に励んだ。全斗煥・保安司令官の中央情報部長兼職や、大学運動などの問題を解決するため臨時国会を開くよう野党・新民党は主張したが要求は与党が黙殺した。野党内の葛藤と弱点は見抜いた与党に見抜かれていた。

 野党が分裂したこのような雰囲気の中で、2人はいよいよ記者会見を通じて「戒厳令解除」「政府改憲作業の中止」「臨時国会召集」を要求した。しかし、学生デモは収まらず日ましに激しくなっていく。軍部は部隊を全国の重要な都市に投入する計画を点検し、兵力も移動させた。一方、学生らのデモは街頭に広がり、全面的な対決の状態に入るのである。

 高麗大学で集まった全国の大学代表らが全面的な街頭デモを展開することに決意したのは5月中旬。その決意が各大学に伝えられると、ソウル市内では大学生7万人が一斉に校門から出て街頭デモに参加した。そして彼らは、「非常戒厳解除」「言論自由保障」「政府改憲中止」「労働3権保障」というスローガンを叫びながら主要な地区まで進んでいく。15日、ソウル駅に10万人の学生が集結したので、その気勢がどのようなものであったか想像できる。

 これに対し軍部は、1980年5月17日臨時国務会議で「非常戒厳拡大宣布案」が議決されると、ソウル、釜山、大邱、光州など主要都市に迅速に兵力を投入した。特に学内デモが激しいソウルと光州は軍部の優先的占領地として取り上げられ、光州の全南大学と朝鮮大学にも空挺部隊が配置される。だが、それが歴史的悲劇を呼ぶとはだれも予想できなかっただろう。

韓国の民主主義、その1980年(2・完)5.18 民主化運動(光州事件)28周年 | 光州近辺にある白羊寺
(共有イメージより)
光州近辺にある白羊寺 (共有イメージより)
 なぜ全斗煥の勢力は光州の大学に軍を送り、武力でデモを鎮圧しようとしたのだろうか。それは、光州は抵抗と蜂起の歴史を持っており、鎮圧に失敗した場合に大きな民衆運動に広がる可能性を恐れたからだろう。

 光州の全南大学で「非常学生総会」が開かれたのは5月初旬。この総会で5月8日〜14日までの一週間を「民族民主化盛会」の期間とすることが決まった。この時点を、学内の民主化闘争から、その枠を超えた民主化のための政治闘争に転換した分岐点に見てもよかろう。

 光州の大学では、前年・1979年の10・26クーデター以来、反民主勢力と反民主的要素を清算するための運動が本格的に展開された。「御用教授退陣」などの問題を含め、累積した未解決の問題に積極的に取り組み、そのうちに、学生らの内なる団結を図る機会にもなった。学生の政治的関心は強く、そのため維新政権側の監視はどこの地域より厳しかった。そのようなムードが全国的な状況と絡んで、軍部政権に対する学生運動として組織的に転換されたので、学生たちの団結力はどこの地域より強いものであったといえよう。

 「民族民主化盛会」で、全南大学総学生会と朝鮮大学民主闘争委員会は共同で宣言文を発表し、5月14日まで非常戒厳を解除することを軍部に要求し、大学に休校令が下される場合それを拒否することを明らかにした。また、良心的教授らに「現実に積極的に参加するよう」訴えることも忘れなかった。しかし、学生と警察が対峙する状況のみが続き、いよいよ学生らは「民族民主化盛会」の最終日(14日)街頭に進出するのである。

 同日午後2時、全南大学総学生会の指揮の下に全南大学の学生7、000人が警察の阻止線を突破し、道庁前の広場で集会を強行した事件が街頭デモの始まりとなった。街頭デモは15日にも続き、全南大学、朝鮮大学、光州教育大学の学生2万人、そして教授、青年、市民など数万人の人が道庁前に集結した。

 高校生までデモに合流したのは16日。光州市民と大学生5万人が集会に参加し、夜にはたいまつをともして軍部独裁に反対し、民主主義を取り戻すためのたたかいを繰り広げた。当時、光州市民と学生らは、街頭デモを通じて軍部に意思を十分伝えたと判断し、19日に同じ場所に集結することに決め、17日と18日は軍部の反応を見守る意味で休むことにした。しかし、このとき悲劇が起こるとは、誰一人予想できなかっただろう。

 17日、国防部では全軍の主要指揮官会議が開催された。そしてこの会議で「非常戒厳の全国拡大」「学校休校」「国会解散」「国家保衛非常対策会議の設置」などの重要な案件が決まり、それを大統領に建議することにする。軍から圧力を受けていた崔大統領は同日その建議を受け入れ、全国に非常戒厳を拡大するという内容を国民に宣布してしまう。

 悲劇はここから始まった。その発表は国民の民主化への熱望を徹底的に裏切るものであった。むしろ朴・維新独裁政権の最悪の時を連想させるほど、まったく民主主義に逆行する措置であった。金大中氏をはじめ、政治家26名を連行しただけではなく、「すべての政治活動中止」「大学休校」「屋内外の集会、示威及び前現職国家元首への誹謗禁止」「職場離脱及びストライキ禁止」「言論検閲」など、ありとあらゆる面から国民の権利と自由を抑圧する不法な戒厳令だっだ。

 同日午後「全国学生会長団会議」が開催されていた梨花女子大学では何十人もの学生代表が逮捕され、全国各地で数百人の民主化運動の闘士が連行された。休み中の不意打ちで、光州でも、社会運動、学生運動の指導者多数が検挙された。軍の巧みな戦略には市民が呆然とした。

韓国の民主主義、その1980年(2・完)5.18 民主化運動(光州事件)28周年 | <center>朝鮮大学校(「カメレオン」より)</center>
朝鮮大学校(「カメレオン」より)
 いつも悲劇は突然起こる。日本で有名な1928年3月15日の弾圧も、田中義一内閣による不意の襲撃であったと思う。5・18民主化運動の時には空挺部隊の軍による暴圧であったが、3・15事件の弾圧の主体は悪名高い特別高等警察。プロレタリア運動の取り締まりに特訓を受けた彼らは、多喜二を初め、1600人の社会主義者を無法にも逮捕したのである。

 小林多喜二は悪辣な特高に検挙される一家族の家長と、ひそかにその様子を見守る娘の姿を『一九二八年三月十五日』に次のように描いている。

 一通りの取調べが終ると、皆は一度室の中をグルグル見廻して、出て行った。
 襖が閉った。――室が暗くなった。幸子は危くワッと泣きだす処だった。
 父と折かばんが始め低く何か云っていた。だんだん声が高くなってきて、何を話しているか幸子にも聞えてきた。

 「とにかく来て下さい。」折かばんが云っている。
 「とにかくじゃ分らないよ。」
 「ここで云う必要がないんだ。来て貰えばいいんだ。」だんだん言葉がぞんざいになって行った。

 「理由は?」
 「分らん。」
 「じゃ、行く必要は認めない。」
 「認めようが、認めまいが、こっちは……。」
 「そんな不法な、無茶な話があるか。」
 「何が無茶だ。来れば分るッて云ってるじやないか。」
 「何時もの手だ。」
 「手でも何んでもいい。――とにかく来て貰うんだ。」

 父が急に口をつむんでしまった。と、力一杯に襖が開いて、父が入って来た。
 後から母がついてきた。五人は次の間に立って、こっちを向いている。
 「ズボン。」


 何かの物音で目を覚まし、父の逮捕される場面を目撃する幸子の心境はどのようなものであろうか。予告もせず自宅に浸入し、一家族の幸福を破壊し、不法に家長を連行する特高は他人の人権と自由を「無茶」に踏み躙る。幸子は目の前で血肉の絆が断絶されるような痛みを、無慈悲な特高の蛮行によって経験しているのではないか。

 「幸ちゃんが眼でも覚すと……」という母は家族を守ろうとする気持ちで一杯だっただろう。幸子を心配する母の気持ちから、特高の非人間的襲撃による無法的暴圧の残酷さを感じずにはいられない。多喜二は連行されていく竜吉だけではなく、「血の気のない不気味なさえ顔をして」娘を心配しているお恵、そして「身体をどう曲げても、どう向きを変えても、その寒気がとまら」ない幸子の、不安に身を震わす姿を描くことによって、帝国主義権力とその手先・特高の非人道的行為を告発していると思う。

 1980年5月17日、全斗煥軍部権力と戒厳軍は政治家、学生のみならず、多数の民主化運動の闘士を、多喜二の時代のような無法な暴力で検挙した。当時、戒厳軍であった空挺部隊は、敵の後方地域に展開し非正規戦を行う特殊部隊の1つ。したがって軍の中でも、強い訓練と体力の練磨を通じて最強の戦闘力を持っていた。しかし、敵を制圧すべきその部隊が市民と学生を逮捕し、暴力を振るう役割を果たしていたわけだ。これをどうして悲劇でないと言えるだろうか。

 これを書いている今日・5月18日は、「5・18民主化運動」28周年に当たる。市内のところどころで記念行事が開かれ、光州市民と各地から来た人々が1980年5月の意味を噛み締めている。今年は韓国の社会的な懸案の数々と、政府に対する厳しい批判の声が続いているので、5月の民主化精神は現政府の覚醒を促しているかのようだ。アメリカ産牛肉の輸入、大運河事業、非定期職、英語教育などの諸懸案が課題となっている。

 昨日は、国立5・18民主化墓地で追慕祭が行われ、5・18運動の舞台・錦南路では前夜祭が開催され、当時を再現した。28周年行事執行委員長・チソン氏は、「烈士らが身をもって見せてくれた80年5月の希望はいまだ未完成なので、やはり私達に重い宿題として残っている」「生きている人らの罪を懺悔しいま一度世に向かって奮然としてたち上がろう」と述べた。私たちはどうすれば「5月の希望」を完成することができるだろうか。

 今年は特に「日本希望製作所」から、教授4人と幹事が記念式に合わせて国立5・18民主墓地を訪れ話題となった。 日本ではいま映画「光州5・18」(華麗なる休暇)が上映されているそうだ。観客の反応はどうだろうか。「光州5・18」の状況が日本にも広く伝えられ、民主・平和の精神が両国民衆の友好をより深めれば何よりと思う。(シリーズおわり)

ご意見板

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[52205] あのときの鮮烈な記憶
名前:藤重典子
日時:2009/10/12 01:34
だけが残っています。中身は覚えてないのに。学生時代、「韓国の学生運動すごいなー」って感じでした。日本のは結局「内ゲバ」みたいな内部主導権争いが目立ったけど、韓国はターゲットを絞っていましたね。
金芝河も針金かなんかで両腕を後ろに縛られた白衣の姿がオツムに残っています。今は???の人ですが。
DVDが出ているそうで、見てみようと思いました。
「マンセー、マンセー、民主主義、マンセー」、とか日本の韓国民主化連帯勢力は歌っておりました。
[52186] 「光州5・18」
名前:櫻井智志
日時:2009/10/11 19:58
 DVDで「光州5・18」を観ました。
「光州事態」については、事件が発生した当時から日本の新聞でも大きく取り上げられていました。在日歌手の白竜さんが「光州シテイ」を自主出版で出したのを購入して聴いておりました。

 DVD「光州5・18」の感動は、この事態をまざまざと歴史的想像力をかき立て教えてくれました。金芝河さんが作詞した歌「民主主義万歳!!」だったでしょうか、
夜更けの裏通り
呼び子の笛
長い悲鳴・・・・

私は韓国現代史で示された現代民主化革命をなしとげた韓国国民に、強い尊敬と教訓とを啓示されてきました。
[34489] 感謝
名前:金正勲
日時:2008/06/02 12:53

そのうち光州民主化運動はその実体が世界に知られていませんでした。
最近になって映画も作られ、当時のことが再現されています。

光州民主化運動を知ることで韓国歴史がすべて理解できるわけではないでしょうが、その民衆運動が韓国の現代史に大きな意味を持っているのは事実です。

関心をよせていただきありがとうござます。
[34460] すばらしい記事をありがとう
名前:熊木秀夫
日時:2008/05/31 05:44
今朝は早くに起きて川崎南校前の座り込みに参加する予定だったが雨で中止した。自分の健康を気遣うことが生活の第1になってしまったからだが。
今日はそのおかげで市民記者の皆さんの渾身の記事をゆっくりよませていただいた。
 友情と連帯は私の人生の座右の銘だが 韓国の5.18事件をこの記事のおかげでよく知る事ができ、少しは韓国の歴史を知る事ができた。ありがとう。韓国に友人がいるが民主化の戦いでどんな活動があったのかをおしえてもらえなかった。このような記事をもっとかいてください。
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