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コラム

船場吉兆の「使い回し」と「もったいない」

田中良太2008/06/01
あの「船場吉兆」が廃業になる。産地偽装と「使い回し」が祟った。バブル期以前まで、日本人の生活を支配したのは「もったいない」の感覚だった。食べないものは一皿すべて残すのが美風である。そうした客の遺すメッセージを受けて使い回しの習慣もできたのだろう。その習慣が、この老舗では改められなくなってしまったのではないか。
日本 食 NA_テーマ2
船場吉兆の「使い回し」と「もったいない」 | 「船場吉兆」本店、07年11月19日、大阪市中央区にて山本ケイ記者撮影(「偽装事件に揺れる「船場吉兆」本店
」より)。
「船場吉兆」本店、07年11月19日、大阪市中央区にて山本ケイ記者撮影(「偽装事件に揺れる「船場吉兆」本店 」より)。
 ◆「偽装」に関心なし
「船場吉兆」がとうとう廃業に追い込まれた。もともと、私は食品偽装には何の関心もなかった。安価な素材を買って上手に調理し(自分でつくるのである)、美味しく食べるのが食通の極意だと思っていたからだ。近所のスーパーで安価な鶏肉は「ブラジル産」となっているが、30%程度の上乗せで買える「国産」を選ぶことはない。国産とブラジル産の味の差は、私の舌では判別できないからである。

 ◆高価なものは美味しい?
 産地が偽装され、高い値段が付けられている食品を美味しいと考えている人たちは、それで満足している。「これは国産の味じゃない」とか「比内鶏でなくブロイラーだ」と消費者が告発して偽装が判明した、などというケースは1件もない。要するに「偽装」で迷惑を被った人は誰もいないわけだ。それなら内部告発で会社をつぶすこともないではないか。

 ◆社用族がだまされた!
 まして「吉兆」など、虚栄心の塊みたいな人たちが行く店である。「値段が高いから美味い」という人たちが、たいてい会社の交際費で利用する。そんな店が偽装で客をだましたところで、だまされた客に同情するつもりは全くない。「ざまあ見やがれ」と思うだけだった。しかし閉店の理由が、客が手をつけないまま残した料理の「使い回し」だということで、ひとこと言いたくなった。

 ◆太宰治の習慣
 使い回し発覚直後の5月6日付毎日新聞は、朝刊のコラム「発信箱」に以下の文章を載せている。

 <発信箱:食べ残し=玉木研二(論説室)
 大阪・船場の旧家に生まれた4姉妹の物語、谷崎潤一郎の長編「細雪」に料亭「吉兆」は登場する。

 世は戦時下。「どうも昨今は、酒も料理もだんだん窮屈になって来ましたが、此処(ここ)の家はいつもこんなに御馳走(ごちそう)が出るんでしょうか」。招かれた客が顔を光らせながら感心する場面がある。

 そして今、飽食の世。「船場吉兆」が客の残した料理を別の客に回していた。高級料亭の体裁の裏で焼け跡闇市の雑炊食堂のごときやりよう。いじましいというほかない。

 ところで、太宰治が戦前の小品「佐渡」で書いている。
 「私は一つの皿の上の料理は、全部たべるか、そうでなければ全然、箸(はし)をつけないか、どちらかにきめている。金銭は、むだに使っても、それを受け取った人のほうで、有益に活用するであろう。料理の食べ残しは、はきだめに捨てるばかりである」

 彼の「人間失格」にも「お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる」というくだりがある。

 船場吉兆が太宰を座右の書にしていたとは到底思えない。ただのソロバンずくだろう。高い金払って一杯食わされた客もさることながら、残され、使い回された料理こそ哀れである。私は高級料亭には縁遠いが、会食でやむなく残しても持ち帰り可能な料理は、頼んで包んでもらう。

 さて佐渡の太宰。食べきれぬ料理を酌の女性に懇々と勧める。「女は、私の野暮を憫笑(びんしょう)するように、くすと笑って馬鹿丁寧にお辞儀をした。けれども箸は、とらなかった」

 ◆津軽の旧家の躾け
 本名・津島修治の太宰は津軽の大地主の六男だった。一つの皿の上の料理を「全部食べるか、全然箸をつけないか」どちらかにすることは、自分で決めたように書いているが、正確には津軽の旧家の躾けだったはずだ。私自身は、太宰とは対照的な貧乏人の家で育ったが、「手を付けたものは全部食べなさい」と厳しく言われたことを記憶している。太宰の生家でも、私の家でも一皿そっくり残ったものは、他の誰かが食べた。

 ◆もったいないという生活感覚
 ずっと昔から日本人の生活を支配したのは「もったいない」という感覚であった。食べないものは一皿すべて残すのが美風であり、あちこちの皿に手を付けては残すというのは、「食い散らかす」といって下品の極みだったのである。

 ◆吉兆で残す客のメッセージ
 吉兆のような店で、手を付けないで一皿残す客は、「これは次の方に食べてもらって下さいよ」というメッセージを発したことになる(毎日の玉木氏の見解と異なるが……)。客の要望に沿うような形で、「使い回し」の習慣ができたのではないか。「吉兆」は、料理人で文化功労者だった故・湯木貞一氏が1930年に大阪市で創業した店である。時代背景から見れば、この伝統が成立・支配したのは不思議ではない。

 ◆「消費は美徳」の時代
 資料を見ると「消費は美徳」という言葉がつくられたのは、1959年だったという。しかし、言葉は登場と同時に普及するのではない。普及しても、それが「生活感覚」として支配するのは、その先のことである。少なくとも1960年代まで、日本人の生活感覚は「もったいない」だった。70年代の石油危機に直面して「浪費を慎もう」というキャンペーンが展開された。  

 ◆伝統を断ち切れなかった?
 消費どころか浪費さえ「美徳」扱いとなったのは80年代で、バブル経済とリンクした現象だったように思われる。その時代の転換の中で、「使い回し」の習慣を改めなければならなかったのであろう。しかし老舗であればあるほど、伝統を断ち切ることは難しい。

 伝統を断ち切れなかったという「過失犯」の方が社会的非難も、そして客足への影響も大きく、ついに廃業となった。「故意犯」である偽装だけなら何とか乗り切れたのに……というのは皮肉なことである。
 
 ◆天声人語の非難
 5月6日付「朝日」の天声人語は

 <高級料亭「船場吉兆」で、また醜聞が噴き出した。客の食べ残しを別の客に出していたという。思えば料理屋の厨房(ちゅうぼう)は、客の目を隔てた「密室」だ。吉兆に限らず、やろうとすれば難しいことではあるまい。

 だが私たちは普段、そんな不実など思いもよらず、料理を口に運ぶ。念を押すまでもなかった「暗黙の信頼」が、ここでも揺れた。まっとうな店への疑心も植え付けたとしたら、船場吉兆の罪は重い。>

 と書いている。偽装はともかく、「使い回し」について私は、ここまで非難する気にはなれない。

 ◆バイキング料理食い散らす日本人
 貧乏暮らしなので、どこかに出かけたときはビジネスホテル利用が多いが、ときどき中国・韓国などからの団体客とかち合うことがある。バイキング方式の朝食で同席して、彼らの食事の跡が目に入ると、皿には食べ残しなどない。それに対して日本人宿泊客の残した皿には、食べ残しが山盛りという感じだ。

 そういうとき、日本人であることがホントに恥ずかしくなる。

◇ ◇ ◇

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[35002] 「騒ぎ」の問題です
名前:田中良太
日時:2008/06/16 17:27
 おっしゃるとおり、「偽装」に気づかれ、自衛している方は多いと思います。「味は分からないから、いちばん安いものしか買わない」という私の行動パターンも一種の自衛です。
 問題はメディアの騒ぎ方です。「赤福」など近鉄沿線のどこの駅売店でもうず高く積まれていて、それがすべてせいぜい前日の製造などということはあり得ないと以前から思っていました。それでも「赤福」を買って帰ると女房殿のご機嫌が良くなるので、まあ買いつづけたわけですが……。
 日ごろきちんと「疑問だ」と書かない反動で、何かあると大々的に報道するということかもしれません。
 吉兆のことも、あんなところ私は行かないんですから、何の関係もありません。しかし「いかなる状況下でも食べ残しは捨てろ」といわんばかりの主張に与するわけにもいきません。
 そんなことで、少数意見にすぎないと思いつつ書いたわけです。
[34805] 不躾ながら、反論があります
名前:梶山弘
日時:2008/06/09 20:51
> 「これは国産の味じゃない」とか「比内鶏でなくブロイラーだ」と消費者が告発して偽装が判明した、
> などというケースは1件もない。 要するに「偽装」で迷惑を被った人は誰もいないわけだ。


そんな事はないと思います。
確かに、そう云ったケースでの「偽装判明」は私も聞いた事はありません。
しかしながら、そう云った偽装で迷惑を被った人間が「誰もいない」とするのはあまりに早計です。


偽装に気付きながらも一消費者が告発したところで、企業相手では勝ち目が無いと云う諦観があるか、或いは確信が持てないが故に最後まで追及できないなどの場合が、少なからず有ったはずです。
そしてその場合、多くの人は「二度と行かない」と云う方法で防衛するのではないでしょうか。


実際問題、私は「大山地鶏」と称しながら、明らかにブロイラーとしか思えない鶏を使っている焼き鳥屋に遭遇した事が何度もありますし、「本マグロ」と称しながらも、恐らくはメバチマグロを出していた寿司屋にも遭遇しました。
証拠は私の舌だけですが、確信はあります。 
告発したところで私には何等の益もありません。 それ故、対処としては私の「二度と行かない店」リストに載るだけです。
しかし、価格に釣り合っていないと云う不利益=迷惑は、あきらかに被った訳です。


これは「偽装」で迷惑を被った例です。
告発が無いからといって、「迷惑も皆無」とは言い切れません。



「吉兆の使いまわし」については、「もったいない」事とは全く別の問題だと思います。
POSで管理されたファミレスでは恐らく出来ない「使いまわし」を、吉兆がやったという事が問題なのです。
天声人語に書かれている通り、日本ではあまりにも当たり前となっている「暗黙の信頼」を吉兆が破壊した、この事こそが罪なのだと私は思います。


でなければ中国の様に、外食するのに自前の食用油をレストランに持参し、調理場まで行って「持参した油で調理される事を確かめる」などと云う事態にまで発展してしまうのですから。
少なくとも私は、そんな「他人を信頼できない国」に住みたいとは思いません。
[34755] それでも、捨てるのはもったいないと思う。
名前:細田茂夫
日時:2008/06/08 09:04
 今まで経済的に優位な立場を利用してきた日本は、海外から食料を輸入して、外食産業や家庭で大量に残飯廃棄をしてきた。そういった潮流の中で船場吉兆の使いまわし事件があり、結果として、さぁやっぱり今までどおり残飯廃棄を続けましょうと納得するのも、時期尚早ではないか?
 以前から経済誌では、日本勢が海外での食材調達で「買い負け」していることが報じられている。
 そして、ご存知の最近の食料価格高騰。
 今後の少子化による日本経済の縮小は、日本経済の海外食料調達力にも当然影響する。

 こういう外部状況の変化を考えると、今までどおりの大量廃棄を続けるのは、古い言い方であるが、そのうち罰が当たる、という状況が整いつつあると思う。

 外食時の「ドギーバック」による持ち帰りくらい、もうすこし一般的にならないのかなと思う。刺身系は、食品衛生の点で無理かもしれないけれど。。

 船場吉兆のもったいないは、単に経済的な意味でもったいないというように報道されている。この報道に欠けているの、調理人の気持ちだ。作る人にとって、気持ちをこめて作った料理をおいしくたべてもらうというのは、一番の喜びなのではないかと、僕は思っている。 その料理に全く箸をつけることなく残して、それを捨てるというのは、調理人にとっては、なんだかむなしい気持ちになるのではないか。
 船場吉兆を利用してきた接待客にとって料理は単なる飾りであり、そういう扱いをする客に「飾り」を使いまわして、何が悪いのか、という考えもあるのではないだろうか?
 まぁ、食べ残しは、あいりんで配っていれば、美談にでもなっただろうに。。。
[34485] 船場吉兆
名前:村上久三郎
日時:2008/06/01 18:46
元船場吉兆経営者殿へ

@あの有名な「船場吉兆」がなくなりました。
「もったいない」ということで「もったいない」ことをされました。
A「食べ残し」を「もったいない」と思うのは「家族同士」か「恋人同士」と思います。
B料亭での「食べ残し」と「飲み残し」は「廃棄物」です。「有価物」ではありません。
「読み残し新聞」は「廃棄物」ではなく、「有価物」ですから子ども会へどうぞ。「廃棄物」と「有価物」の区別が大切です。
D今となっては「思い残し」だけとなりました。
 
                      
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