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コラム

【大気圏外】麻生新組閣を採点すると65点、さて国民は?

田中良太2008/09/25
 麻生新内閣の採点をすれば65点。内外の圧力に妥協し、「改革最優先」を貫かなかったのは減点だが、みずから国民に働きかけようとする姿勢は良い。60点を超せば私は及第点だ。この布陣で、もしも総選挙に勝てたら85点に「昇格」してもよいが、最後にホントに採点するのは国民だ。
日本 内閣 NA_テーマ2
 ◆吉田流閣僚名簿づくり
 首相に就任した麻生太郎は、祖父・吉田茂の「閣僚人事案」を見ながら育ったのだという。組閣や内閣改造を考えるとき、吉田はまず大きな紙に「原案」を書く。そこに登場した名前を削ったり、復活させたり、ときにはポストを入れ替えたりと、つぎつぎ書き換えていく。

 ◆小学校時代の麻生が見ていた
 その紙をいまでも持っている、という話を周囲に漏らすことがあるという。第1次吉田内閣が成立したのは1946(昭和21)年5月21日で、このとき麻生は5歳。吉田最後の閣僚人事は、53年5月21日の第5次吉田内閣組閣だった。このとき麻生は12歳で、学習院中等科1年だった。つまり麻生は、吉田流閣僚人事術を見ながら、小学校(学習院初等科)時代を過ごしたということになる。

 麻生自身初めての組閣にあたって、その真似をしたのだろうか? 少なくともアタマの中では、「吉田流」をやっていたのだろう。

【大気圏外】麻生新組閣を採点すると65点、さて国民は? | <center>麻生新内閣(ロイター/アフロ)</center>
麻生新内閣(ロイター/アフロ)
 ◆閣僚名簿を自ら発表
 それはともかく、麻生は政権発足のときから、強烈なパフォーマンスを展開した。閣僚名簿を首相自ら発表したのである。同時に各閣僚に対する任命時の指示の内容も首相自ら発表した。これまでの慣習は、閣僚名簿を読み上げるのは官房長官で、任命時の首相指示は、その後初会見した閣僚たちが明らかにするのであった。

 ◆「首相の考えと行動を取材する」
 政治部記者になりたてのとき、先輩から政治部の取材目的は「首相が何を考え、どう行動するのか?」を知ることだ、と教えられた。首相官邸クラブだけでなく、自民党(平河クラブ)も野党クラブもそのためにある、というのである。

 ◆首相自身は語らないのが日本の伝統
 首相自身は、その考え方、行動方針を明らかにしようとしない。だから誰かを通じて取材する必要がある。端的に言えば、内閣では官房長官、自民党では幹事長が、首相の意思を表明するスポークスマンである。それだけでなく、首相と会ったすべての人物を取材する。野党クラブもまた、野党を通して首相の意思を取材する。それが政治部全体の目的だ、というのである。

 ◆「奥の院」の権威を高めるスタイル
 おそらく首相は発言しないことによって、「奥の院」の権威が高まることになる。それが日本政治のシステムだったのだろう。

 ◆国民に語りかける首相への転換
 情報化時代で、国民が日々メディアに接するようになると、「奥の院の権威」を高めようという努力は無意味になる。「奥の院」などといっても、その実態はどんどん国民に知られるようになった。そうなると「権威」も崩れる。首相が直接国民に語りかけることによって理解されることを目指す方が効果的だということになる。

 ◆中曽根が始め、小泉が完成させる
 この手法を取り始めたのが中曽根康弘であり、完成させたのが小泉純一郎であろう。小泉の場合、小泉劇場と言われるまでになり、ついには05年9月の郵政選挙圧勝を勝ちとってしまった。

 ◆小泉の上目指した麻生
 その小泉でも閣僚名簿は官房長官に発表させていた。しかし麻生は、小泉の上を行こうとしたように見える。首相自ら国民に語りかける決意の強さを、閣僚名簿発表のときから表明したと言えるだろう。

 ◆首相候補でない官房長官
 発表のスタイルだけでなく、人事の内容もまた、「麻生流」を貫こうとした跡が鮮明である。例えば官房長官の河村建夫である。小泉政権下の官房長官は福田康夫、安倍晋三、細田博之の3人。安倍と福田は首相になった。細田も今回の人事で幹事長になり、あるいは首相候補の1人かもしれない。しかし河村が首相候補となると考える人はいないだろう。

 ◆もともとは非閣僚の「書記官長」
 官房長官のポストは旧憲法下では「内閣書記官長」で、通常閣僚ではなかった。1947年、新憲法下の内閣法で官房長官となり、同66年の法改正で初めて「国務大臣を充てる」と明記された。それまでは慣習的に国務大臣としていただけなのである。

 ◆スポークスマン兼国対責任者
 官房長官が内閣のスポークスマンであることはよく知られている。対照的にあまり知られていないのは、内閣の中で、国会対策の責任者だということである。それぞれの国会が、どういう審議スケジュールとなり、どの法案をどの時点で成立させるか? その見通しを立てたうえで内閣の仕事をリードする。他方、内閣としての国会運営への希望を与党の国対委員長に伝える……。こんなことをやっていたのである。

 ◆町村は大物すぎる弊害
 スポークスマンとして世論と向き合い、国対担当として国会と向き合う。つまり内閣の渉外係だから、最重要ポストだと考えてもおかしくない。しかし福田康夫内閣の町村信孝官房長官の場合、大物すぎる弊害が鮮明だった。町村の場合、議員歴では福田よりはるかに先輩。閣僚経験も豊富で、官房長官だけの福田とは比較にならない。本人自身「福田より上」と考えているらしく、言葉の端々にその意識がにじみ出ていた。

 ◆宮沢喜一・後藤田正晴ら大物の系譜
 官房長官重視の流れは1980年7月に成立した鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官、82年11月成立の中曽根康弘内閣の後藤田正晴官房長官あたりから始まるのだろうが、それを「書記官長」時代に近づけたというのが、河村起用の意味だろう。

 ◆「外交はオレがやる」
 もう一つ、外相に中曽根弘文を起用したのも、「外交はオレがやる」という宣言だろう。首脳外交の時代である。首脳同士の親密な関係がいちばん大切とされ、外相の存在は霞んでいるのが実情だ。派閥の長である高村正彦にお引き取り願ったのは、外相には「大物不要」という認識をそのまま表明したものだろう。

 ◆派閥トップ閣僚は4人から1人へ激減
 町村、高村を含めて福田改造内閣に4人いた派閥トップは、二階俊博(経産相)だけになった。大物にはお引き取り願って、首相指示に従って動く閣僚をそろえたと言っていいのかもしれない。

 ◆森派の2人押し込め
 麻生の思い通りに行かなかった部分もある。一つは森喜朗が「町村派から2人」にこだわったこと。麻生の当初構想は、森派からは中山成彬だけだった。しかしニューヨークにいた森が麻生に電話し「森派から2人」にこだわった。麻生が「衆院1、参院1」という案を出したが承認せず、結局、塩谷立(文科相)を押し込んだのだという。

 ◆行革担当断った中山
 中山のポストの問題もあった。麻生は中山に電話し、「行革担当相をお願いしたい」と言ったが、中山は「派閥に相談します」と返事。最終的には「夫婦だけでなく息子も財務官僚。行革担当で霞が関を解体するなんてできない」と、家庭の事情まで持ち出して、担務替えを申し出た。結局中山は国土交通相に落ち着いた。

 ◆甘利のポストは3転
 このあおりを食ったのが、甘利明。当初は総務相起用説が流れ、その後国交相といわれた。最終的には中山とチェンジして行革担当相に。「これだけポストが入れ替わった前例を私は知らない」と不満顔だったという。

 ◆麻生の中途半端な姿勢
 この2件とも、麻生の中途半端な姿勢を示しているといえる。森の「2人強要」問題は、「そもそも幹事長ポストは閣僚3人分と言われます。幹事長が細田(博之)さんなんだから、閣僚1人でも実質4人。それで満足ということにしてほしいですね。1人だけでは閣僚引き上げですか? 」とでも言えば良かったのである。

 ◆町村派いじめのチャンス生かさず
 町村派は今回の総裁選で、森・町村らが麻生支持を鮮明にしたのに対して、中川秀直らが小池百合子を支持。派内は分裂状態にある。麻生にいくらいじめられても、「反主流派宣言」などできないのである。あるいは安倍晋三との仲が壊れることを心配したのかもしれない。しかし安倍だって政治家なのだから、自分の動き方を模索するぐらいのことは自分でやるべきなのだ。

 ◆「小泉流」をとらなかった
 中山の件も、「親子3人皆、財務省だからこそ行革担当なんだ。役人の手の内を知り尽くしている人にやってほしいんだ」と言い、小泉と同様、嫌なら入閣させないという姿勢をとるべきだった。「鉄は熱いうちに打て」だから、このくらいのところで政権を発足させなければ、政治改革も、行政改革もできない。

 ◆お友だちの意思を優先
 どうやら麻生自身「改革最優先」という姿勢はないのかもしれない。文教族以来の「お友だち」の意思尊重の方を優先したようにもみられる。

 ◆千葉の2人初入閣の意味
 組閣人事では「永田町の論理」を優先した部分もある。法相に森英介(麻生派、千葉11区)防衛相に浜田靖一(無派閥、千葉12区)と隣接した選挙区の2人が同時初入閣となった。どちらか一人だけの入閣では、他の1人が「先を越された」ということになり、選挙で不利となる。だから「入閣するなら2人同時に」ということになる。麻生はそれをかなえてやるのだから、優しい首相ということになる。

 ◆政界の人材不足露呈
 それにしても政界の人材不足が露呈した内閣といえる。誰が見ても最重要ポストは農水相と厚労省。農水相は汚染米流用事件のけじめをつけることが求められている。厚労省は厚生年金の標準報酬月額改ざん問題のけじめをつけるとともに、後期高齢者医療制度の問題についての抜本対応策を打ち出したいところだろう。この両相の動きがそのまま総選挙での票の行方に結びつく。

 ◆舛添はテレビで留任求めた
 農水相は石破茂の起用、厚労省は舛添要一の留任だった。舛添は20日午前のテレビの番組で、後期高齢者医療制度について、「いい面がたくさんあるが、国民が支持しない制度は大胆に見直すべきだ」と述べ、同制度に代わる新制度の創設を検討する考えを改めて強調した。また同制度の対象者から批判が強い年金からの保険料天引きに関し、10月15日の年金支給分から口座振替も選べるようにしたのに、選択する人がほとんどいないとして、「(次回の)12月には天引きを強制しないことを徹底する」と語った。

 ◆「火中の栗を拾う」人物なし
 この発言については、公明党が「何の根回しもない。真意がよく分からない」と不快感を示すなど反発もあったが、舛添が対応策をうち出す意欲があるなら、舛添に委ねようという判断になったのだろう。難問を抱える厚労相就任に意欲を示す人物はほかにいなかったための消去法人事を余儀なくされた形だ。

 ◆麻生は中途半端な小泉?
 麻生の目指す首相像はさいきんでは小泉純一郎にあるのだろう。小泉と同様、首相自ら国民に語りかけるという手法は、閣僚名簿の読み上げのときから発揮したわけだ。しかし小泉は、党・内閣の人事を専断し、誰にも口をはさませなかった。麻生にはそこまでの決意はない。人事は中途半端なものに終わっているから、私の採点は65点としておこう。

 ◆私の採点は65点
 これはけっこう高い評点である。どこかで書いたかもしれないが私の持論は、人生は平均60点。その上に行こうと努力するのか、下でもいいやと手を抜くのか、その程度の差しかないと考えているからだ。

 ◆吉田が専断できた事情
 さて麻生の祖父・吉田はなぜ、人事を専断できたか書いておこう。理由はただ一つ、吉田だけがマッカーサーと話すことができたからだ。当時の日本には主権がなく、マッカーサーが全権を握っていた。日本国内で「マッカーサーの代理人」を名乗れるのは吉田だけだった。だからこそ人事を専断できたのである。

 ◆すべてがかかる総選挙結果
 麻生が小泉と同様の人気を獲得し、人事を専断できる立場になるかどうか? すべては次回の総選挙結果にかかっている。解散・総選挙の次期はいつにするのか? 補正予算・国会審議との兼ね合いはどうするのか? すべては麻生にかかっており、責任回避はできない。

 ◆総選挙で勝てば85点
 その総選挙に勝ったら、麻生は小泉以上の力を持つ首相となる。私が65点とした人事も、あるいは85点とされるかもしれない。

 ◆首相でない自民党総裁の可能性も
 負けたら政権から転落する可能性も大きい。かつて宮沢派だった麻生は、ハト派の加藤紘一らとソリが合わず冷遇された。宮沢派が分裂した後は河野(洋平)グループにいたこともある。河野と同様、首相でない総裁になる可能性もある。その場合、麻生人事の評点は45点という落第点か。いずれにしてもホントの採点は国民がすることになる。
◇ ◇ ◇

ご意見板

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[37585] こちらも鋭い分析をしています。
名前:くろいひろゆき
日時:2008/09/25 22:42
麻生内閣組閣に対する分析はなかなか鋭いです。

http://archive.mag2.com/0000243699/20080924190000000.html
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