4月1日付「朝日」朝刊15ページ「オピニオン面」に注目した。「小沢氏vs検察」と題して立花隆の寄稿とリクルート事件捜査時の東京地検特捜部長・宗像紀夫へのインタビューという2本立て。立花寄稿の見出しは「民主代表のまま裁判を続けるのか 師から何を学んだ」である。
文中で立花は、ロッキード事件で逮捕された田中角栄がまずやったことは、自民党への離党届を出すことだったという事実を紹介し、<「党に迷惑をかけちゃいかん」というのが、角栄の決断だった>と書いている。
この決断があったからこそ、角栄の「裁判闘争」は、自民党とは関係のない一私人、角栄の戦いとなった。小沢は民主党代表のまま裁判を続けるのか? 念願の政権交代を実現させたとき、首相と検察が法廷で闘うということが、どういうことだか考えているのか? というのが立花の小沢に対する問いかけである。
小沢は父、佐重喜の死去によって69年12月総選挙に立候補、27歳で初当選した。佐重喜は馬車引きまでしながら苦学し、日大で法律を学んで弁護士から政治家となった立志伝中の人物。戦前・戦中は東京市議・府議をつとめ、戦後代議士となった。運輸相、郵政・電通相、建設相などを歴任。最終的には藤山(愛一郎)派だった。
しかし立候補にさいして、小沢が訪ねたのは、当時(佐藤栄作政権)幹事長だった角栄だった。そのとき2人の間で以下の会話が交わされたとされる。
角栄「君は何年生まれだ」
小沢「昭和17年です」
角栄「ああ、俺の死んだせがれと同い年だな」
角栄には早くに亡くした長男がおり、小沢にその身代わりを見たという。以後連日、目白の角栄邸に通わせ、自からの一挙手一投足を学ばせた。
結婚にあたっては、自分の地元新潟県の有力支援者である大手建設会社「福田組」の社長令嬢をひきあわせ、挙式では父親がわりを務めた。小沢の同期生たちが「お稚児さん」とやっかんだほどの溺愛ぶりだったという。
金丸信、竹下登も小沢を可愛がった。というよりも、角栄の正当嫡子・小沢を可愛がることが、田中派内で重きをなす条件だと判断したのだろう。
その溺愛ぶりは人事に反映した。有力議員の「登竜門」となる政務次官は、75年から翌76年にかけて科学技術、建設の両ポストに就いた。角栄自身が、建設官僚に「将来、総理大臣になる男だ」と太鼓判を押し、官僚はゼネコン各社のトップに紹介する。小沢とゼネコンの関係は、すでに30数年の「歴史」を持つのである。
党サイドでは、国対筆頭副委員長、総務局長などのポストに就いた。国対の「筆頭副」は、野党のカウンターパートと日々折衝する。国会での根回し術を学び、野党に人脈を築く。その延長線上で、衆議院議員運営委員長を務めた。
自民党総務局長は、幹事長の下で、総選挙の公認調整や参院選比例代表区の名簿順位づけを手がける。「選挙の小沢」は、総務局長として選挙の「元締め」を経験したことによって生まれたのである。さらに田中派事務局長・事務総長の両ポストも歴任した。閥務に精通すると同時に、派閥のメンバーの面倒をみることになる。
小沢を「大物」に育てようとする角栄の溺愛に、小沢はよく応えたといわれる。角栄が被告として出廷するロッキード事件一審公判では、傍聴席に必ず小沢の姿があった。「皆出席」だったのである。
しかし小沢は角栄を裏切った。1985年1月末、事実上の竹下(登)派結集であった創政会結成の動きが表面化した。角栄は阻止しようとしたが果たせず、「勉強会」として認めた。2月7日初会合を開いたのだが、この田中派内政局で、小沢は「竹下派結集」の急先鋒だったとされる。角栄は子飼いの議員たちに裏切られた悔しさのあまり、昼間から酒に浸る日々を送り、20日後の27日、脳こうそくで倒れ、入院した。その日以降、政局は「田中不在」となった。
角栄がもっとも強く怒ったのは小沢の裏切りであろう。親代わりとなり、実の息子以上に可愛がった人物に後ろ足で砂をかけられたのである。小沢は、創政会結成の急先鋒となることによって、政治家としての角栄を殺してしまった。
小沢はその後、金丸信、竹下登をも裏切ることになる。92年8月、「金丸5億円事件」が朝日新聞に報じられた。商法の特別背任罪で起訴された東京佐川急便の渡辺広康元社長が、1989年の参院選前、金丸に10億円の資金提供を求められ、5億円を秘書に渡したと東京地検の調べで供述していた、というのである。その報道の6日後、金丸は記者会見して5億円を受け取っていたことを認め、自民党副総裁と竹下派会長を辞任した。
この5億円ヤミ献金事件について検察は、金丸に上申書を提出させ、略式起訴の罰金刑ですませてしまった。ロッキード、リクルート両事件などで国民の支持を得ていた特捜検察が、逆に「政界のドンだから、特別扱いした。巨悪なのに、交通事故並みの軽い処理だ」と強い批判を浴びた。
この批判があったために検察は、翌93年3月、金丸の巨額脱税強制捜査に踏み切った。この脱税について検察は、国税当局からの情報は得ていたが、明確な証拠を握っていたわけではない。通常なら「大物政治家」に対する強制捜査とはならないケースである。
金丸が5億円受け取りを認めたことは、結果的に脱税事件の引き金となったのである。当時の報道によると、小沢が金丸に対して、「認めた方が良い」とアドバイスし、金丸はそれに従ったという経過だとされていた。小沢が何故、認めるようアドバイスしたのかは不明だ。
この事件で、竹下派は内部抗争状態となり、小渕(恵三)派と羽田(孜)派に分かれた。羽田派の中心にいたのが小沢だった。
抗争が激化していた92年10月13日、小沢・竹下会談が行われた。このとき小沢は「おれはあんたほど忍耐強くない」と言ったと伝えられている。
竹下は角栄に「雑巾がけ」を命じられ、「おしんに徹する」と言っていた時期があった。小沢の「忍耐強くない」という言葉は、「早く政権の座に就きたい」という意味だとみられている。小沢が政権の座に就くためには、竹下・金丸世代の「支配」も早く終わった方がいいわけだ。
竹下派内の反小沢勢力の中には、<金丸に「5億円受け取りは事実」と認めさせたのは、金丸を早く葬るためだろう>と小沢を非難する人たちも多い。
90年代以降、現在に至る政界の激動の中で、小沢と「同志」となりながら、その後、離れた人は多い。「西松献金」で、小沢とともに追及さている二階俊博(経産相)など、その典型である。「同志的連帯」を解消した人たちの多くは、<小沢に利用されているだけということが分かった>と言っている。
立花の寄稿は、小沢にとって田中は「政治の師」だという無条件の前提に立っているが、小沢に「師」という認識はないというのが私見である。小沢にとって政界の人物は、先輩・同僚・後輩などすべてが、「利用する」対象でしかないのではないか?
角栄に可愛がってもらったことについても、「オレが父親の派閥にこだわらず、角栄の門を叩いたのが正解だったのだ」と思っているのではないか。恐ろしい人だというのが、私の小沢観である。
(敬称略)