このテーマですでに3回書いた。
第1回の
「堕ちた政治の核心部分」ではクリントン米国務長官が来日したとき、麻生太郎首相が異例のクリントン・太田会談を実現させ、自ら案内人を買って出るという非常識な行動をとったことを明らかにした。
第3回の
「<公明パワー>で郵政選挙圧勝」では、05年9月の「郵政選挙」での自民党圧勝が「選挙区は自民党候補、比例区は公明党」という自公協力の「戦果」だったことを明らかにした。つまりいまや「定説」化している「小泉劇場による雪崩現象」説を否定した。
この第4回は、自民党衆院議員のほとんどが、「選挙で公明党のお世話になっている」と考えているという事実を見抜いた麻生太郎氏の「総理大臣になる道」を描いた文章である。あまりに長文となるので、(4)を上下2回に分けた。この(上)の部分は、麻生政権が発足するまでの経過を、検証された事実を中心に振り返ったものである。
◆福田康夫首相辞任と同時に確定した麻生政権誕生
麻生政権は昨年9月24日発足した。直前の22日に行われた自民党総裁選で勝利し、直ちに首相に就任したのである。しかし事実上は同月1日、当時の福田康夫首相が辞任表明した段階で、当時幹事長だった麻生氏の後継首相就任は決まっていた。
総裁選は型どおりに行われ、他4人が立候補した。しかし麻生氏の独走ムードがあまりにも強く、盛り上がりを欠いた。自民党内の大多数の期待だった「総裁選を盛り上げ、新首相人気が沸いたところで、総選挙になだれ込む」路線が沙汰止みになるほどの低調=独走ぶりだったのである。
◆公明党と麻生氏が主役の政治劇
福田氏退陣に至るまでの政治劇を振り返ってみよう。麻生氏と公明党が「主役」と言えるほど、ひんぴんと登場することが明らかになる。
福田康夫前首相の「晴れ舞台」だった洞爺湖サミット(昨年7月7−9日)が終わるとともに、神崎武法前代表ら公明党幹部があい次いで「不人気の福田首相では総選挙が戦えない」という主旨の発言を行った。福田氏は「人気浮揚」を目指す内閣改造を迫られた。
当時、麻生氏は自民党内で「人気ナンバー1」と言われる政治家だった。内閣改造の焦点は、麻生氏の幹事長起用であるという「空気」が支配的となった。ここで「空気」というのは、政界あるいは自民党内のムード=雰囲気だといえる。同時にメディアの論調であるともいえる。さらには大多数の国民の意思だと説明する人もいるかもしれない。
いずれにせよ、政界こそ「KY(空気が読めない)」という軽蔑語が、もっとも強い意味をもつ日本的な社会である。つまり政界人として「優秀」と評価されるためには、「空気を読む」ことが基本動作となっていなければならないのだ。
福田氏は父・赳夫氏が首相だったのが唯一のセールスポイントだと言えるほど凡庸な政治家である。「空気を読む」以上のことはできない。麻生氏の幹事長起用が焦点だという空気に同調せざるを得なかった。
福田氏は麻生氏の説得を、当時、キングメーカーの役割を果たしていた森喜朗氏に要請した。森氏は当然応じたのだが、最終局面ではかつて麻生氏が所属していた派閥=河野グループを率いていた衆院議長・河野洋平氏にも協力を依頼、河野氏も乗り出すという騒ぎになった。
森、河野両氏と麻生氏の対話、さらに麻生氏が幹事長就任を「快諾」する8月1日の福田・麻生会談の内容などは「文藝春秋」08年10月号「麻生・福田『政権禅譲の密約』全真相」で明らかにされている。ペンネーム「赤坂太郎」で同誌に毎号掲載される政界内幕ものである。
◆解散問題と禅譲密約説
森氏との「事前折衝」で麻生氏がこだわっていたのは、「衆院解散」の問題である。電話でのやりとりで麻生氏は「福田総理がご自身で総選挙を断行されたいなら、そのときの幹事長に私はふさわしくない。もっと総理の意を体した、思想信条が同じ人の方がいい」と言った。
これに対して森氏は、福田氏から「自分はその(解散断行の)気はない。私の後が誰かと言えば、党内の大勢はすでに麻生さんではないでしょうか」という言葉を聞いたと伝えた。森氏が麻生氏に「福田氏はそう言っているゾ」と伝えたのに対して麻生氏は「それは総理と実際に面会して、聞かせていただく大事な話ではありませんか」と言ったという。
8月1日の福田・麻生会談では、麻生氏が「昨日の電話でも言いましたが、総理が総選挙をご自身で断行されたいなら、その幹事長は私でなく……」と言い掛けた。福田氏はいやいやというポーズで、顔の前で手を振り、「それはもういいでしょう。当面の政策課題に取り組むことが、私に課せられた使命ですから。総選挙なんて考えたこともないんですから」と制したとされる。
この会談終了後、すぐに「福田と麻生の間で政権禅譲の密約があった」という噂が流れた。8月1日は金曜日だったのに、たった1日で、永田町では知らない人は皆無といわれる状態になった。この密約説は全国紙の3日付朝刊で報道され、週明けの4日、福田氏は総理番記者に質問された。
秘書官が「答えさせたくない」という意思を込めて、福田氏と質問者の間に割って入ったのに、福田氏はあえてそれを制し、記者団に「公になったものを密約とは言わないんですよ」と語った。赤坂太郎の「全深層」は、この言葉を麻生氏に向けたものだと書いている。つまり福田氏は「麻生君。ずいぶん一所懸命密約説を流しましたね。しかし公になったら、密約は無効になるのですよ」と語ったということになる。
◆「景気対策」にもこだわる
福田・麻生会談で麻生氏がこだわったのは、もう1点あった。麻生氏は「党人として総裁の要請から逃げるわけにはいかない」と幹事長ポストを受諾した後、続けて「ただし思ったことはやらせてもらいますよ。とくに景気対策は喫緊の課題だ」と言った。福田氏は何も言い返さず、了承した形になった。
8月5日、麻生氏は幹事長就任に伴う報道各社のインタビューを受け、その中で「景気は後退している」という認識を真正面からうち出した。経済・財政政策の優先課題を「財政再建」から「景気対策」に切り替えるべきだと強調。「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化を優先させて、景気がさらに悪くなるという事態は取るべき選択ではない」と言い切った。この麻生発言は、公明党の「定額減税」要求を正当化するものだった。
◆公明党による定額減税の主張
福田改造内閣でさっそく問題になったのが、「定額減税」問題だった。8月8日、公明党の山口那津男政調会長が、総合経済対策の一環として「定額減税の実施」を要望したのである。自民党の保利耕輔政調会長、与謝野馨経済財政相とともに、総合経済対策の骨格について協議した場での発言だった。これが後に定額給付金に発展する。
この時点では、現在のような不況認識は一般的ではなかった。エネルギーや食料の値上がりで消費が停滞し、景気に減速感が出ているといわれていた程度だった。総合経済対策は、景気停滞を未然防止するという位置づけで、福田首相には財政再建路線を放棄する意思はまったくなかった。福田氏から総合経済対策策定の指示を受けた与謝野氏は「有効需要を創出するようなバラマキ的な対策はありえない」と語っていた。
公明党は「定額減税」の主張をどんどん強めていった。減税だけでは所得税非課税の低所得層に恩典がない。その層には「臨時福祉特別給付金」を支給することを補足した。この双方を合わせて定額給付金となり、全国民が対象のバラマキが成立する。
最終的には「定額減税」問題は、総合経済対策をめぐる調整の最終段階まで持ち越された。自民・公明両党の幹事長、政調会長らは28日午後9時過ぎから都内のホテルで最終調整を始めた。「徹夜協議」が予定されていたのだ。自民党側が「定額減税は効果があるのか」と疑問を投げかけたのに対して、公明党は「定額減税は、対策の1丁目1番地だ。税制ではなく社会政策。所得が減っているのに、物価が上がり消費が落ち込んでいる」などと言い、自民党側が根負けしたと報道されている。
29日未明になって与謝野氏を招き入れた。与謝野氏は「自分1人では決めかねる。首相、財務相と相談したい」と持ち帰ったが、最終的には、単年度の措置であることと、「財源を勘案し税制抜本改革の議論に併せて引き続き検討する」という文言を付け加えるのがやっとだった。
◆福田氏の敗北と辞任
29日の経済対策閣僚会議で総合経済対策が了承されたが、席上福田首相は「補正予算の財源を赤字国債発行で手当てすることはない」と明言した。終了後記者団に「財政健全化路線のもとで真に必要な対策に財源を集中する。旧来型の経済対策とは一線を画す考え方だ」と語った。
公明党の北側幹事長はこの日午後、記者会見し、定額減税と臨時福祉特別給付金支給(非課税の低所得者に対する措置=定額減税と併せて、定額給付金となる)が同党の求めで入ったことを強調。「物価高にあえぐ国民生活の不安をやわらげていく」と高揚した口調で語った。
最後まで財政再建目標の堅持にこだわっていた福田氏は敗北したのである。勝ったのは公明党であり、その圧力によって、総合経済対策の中に、定額給付金の原型が入った。この敗北によって福田氏は退陣を決意、9月1日「突然の退陣」に踏み切ったはずだ。
1年前の9月12日、当時の首相・安倍晋三氏が退陣したばかりだった。安倍氏の場合、機能性胃腸障害が悪化し、全身が衰弱して入院加療を要する病状だったことがすぐに分かったが、突然の「政権投げ出し」は無責任だという批判を浴びた。それを再現するのだから、福田氏には「もうやっていられない」という強烈な動機があったはずだ。
福田氏が退陣に追い込まれたのは、通常「公明党との軋轢」と言われているが、単純に「公明党」だけではない。じつは自民党幹事長に就任したばかりの麻生氏が、公明党の「定額減税と給付金」政策を支持し、後押ししていた。その麻生氏を幹事長に起用したのは福田氏自身である。結局、福田氏自身が自己矛盾に陥っていたことに気づき、「退陣しかない」と決意したはずだ。
◆権謀術数の世界だから面白い?
麻生太郎氏が政界への転進を決意したとき、父・太賀吉氏は「あんな権謀術数の世界に行くものではない」と最後まで反対したという(08年9月24日付読売新聞朝刊福岡県版「70年ぶりの宰相(上)」による)。
太賀吉氏は炭鉱王と言われた祖父・太吉氏の後継者。22歳で麻生商店の社長となって炭鉱を経営しながら、戦後は衆院議員として、岳父・吉田茂氏を支えた。戦後日本を築いた大宰相だったはずの吉田氏が、独裁の害毒だけを流し続けた政治家のごとく非難され、政権から引きずり下ろされる場面を間近に見ていただけに、政治嫌いになったのはうなずけるところだ。
その言葉を聞きながら太郎氏は、「権謀術数の世界だからこそ面白いんじゃないか」と思っていたのではなかろうか。
首相になるための麻生太郎氏が用いた権謀術数はいかなるものであったかは(下)で説明したい。