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「創造力」と「図工の時間」 〜映画『トントンギコギコ図工の時間』を見て〜

斉藤哲也2004/12/21
クスッとした笑いや、ドキッとする子供のセリフもあるが、決してドラマティクなストーリーがあるわけではない。にもかかわらず、これはとっても素敵な映画だ。
東京 映画 NA
 野中真理子監督のドキュメンタリー映画『トントンギコギコ図工の時間』を見た。舞台は東京品川区にある普通の公立小学校。328名の生徒を持つこの学校は、JR山手線の内側、マンションや団地など住宅を含む様々な建造物に囲まれた、要するに都会のド真ん中にある。

 校庭は小さく、表面は土ではない。学校の向かいに公園があるものの、自然が豊かとは言い難い。しかし、決して大きくない都会のこの学校には魅力的な空間がある。それは図工室だった。

 カメラが海中撮影のように浮遊しながら校内を進むと、使い古しのカラフルな木材や地域で回収された様々な廃品物が所狭しと並んでいる部屋に突きあたる。入口には「宝物室」と書いてあった。子供達はこの廃品ばかりの宝箱から、図工の材料を調達するというわけだ。

 映画は、図工室の内外で繰り広げられる、様々な学年の子供達の作業風景、図工専科の内野先生と子供達のやりとりを映し出し、できあがった作品の数々や、子供達へのインタビューを織り交ぜながら淡々と進んでいく。クスッとした笑いや、ドキッとする子供のセリフもあるが、決してドラマティクなストーリーがあるわけではない。にもかかわらず、これはとっても素敵な映画だ。

 まず図工をする子供達の表情が素晴らしい。できあがった作品の数々が素晴らしい。そして、図工を教える内野先生が魅力的だ。

 図工室には、ノコギリ、トンカチ、糸鋸、なた、釘、彫刻刀など、様々な“危ないもの”が置いてある。中でも彫刻刀はケガが多いと、使用を止める学校も増えているそうだ。しかし、そんな潮流どこ吹く風と、この学校の子供達は思いっきり積極的に“トントン、ギコギコ”やっている。“危ない”なんて誰も言わないし、“うるさい”とも言われない。

 悪戦苦闘しながらも、自分の手で何かを作る喜びで溢れている。トンカチで指を強打することもあるだろう、刃物で手を切ることもあるだろう、木材を扱う時には棘だっていっぱいささるはずだ。でもしかし、私の目には佐世保の事件とは無縁の世界に見えてしまう。傷を負った時にどの位痛むのか、彼らはよく知っている。大事なことは遠ざけることではなくて、積極的に使うことで長所短所を知ることだ。映画には登場しないが、内野先生は子供達と次のような約束をしている。

   『刃物の3つの約束』
   1.ひとを傷つけない。
   2.ものを傷つけない。
   3.自分を傷つけない。
   
   大人になるまでずっと覚えとけ。
   大人になっても覚えとけ。
   この順番も大事なんだよ。

 道具を使って物を作るということは、人間だからできることだ。人間と動物、どっちが偉いとか、どちらが優れているとかの問題ではなくて、単純に性格上異なっている。元は廃品だった材料が、子供達の手によって命を吹き込まれる様は、いやー、もう本当に見ていて圧巻だ。たった一枚の真っ平らな板が、トラックや楽器、メリーゴーランドへと立体的な作品に姿を変えていく。

 作品を見ると、カラフルでユニークで本当に素敵な物ばかり。自画像だって、大人が書いたら肌色ばかりになりそうだが、青色や緑色、黄色に茶色と実に多種多様。でもそのような多様性が生まれるには、積み重ねが必要であることは間違いない。内野先生はことある毎に「人の真似をしないのが格好いいんだよ」「作品に上手い下手はない」と低学年から言い続け、何でもありの世界を盛り上げている。

 作業風景は笑顔ばかりじゃもちろんないが、子供達が真剣に取り組んでいるのがよくわかる。苦労した結果が形になっていくことは、子供の自信と作品の質の高さを育んでいるようだ。できあがった作品は、学校周辺の作者の好きな場所に置いてみんなで鑑賞したり、校内に飾ったりして楽しんでいた。

 芸術と言うと何だか美術館にしかなさそうな気がするが、本当はもっともっと身近にあっていいし、それが社会を豊かにするということが説得力を伴って伝わってきた。制作者の彼らには、私達大人以上にその真実をわかっているように思う。内野図工室の卒業生は、10年後20年後、いったいどんな大人になるのだろう。それは先生が一番楽しみにしていることかもしれない。

 図工では必要に迫られてやるのではなくて、自発的に何かを作る。自然と助け合いも生まれる。1人でできない作業では助けを借りる必要があるし、大きな作品ではグループ制作で協働する必要がある。成果物の上手い下手ではなく、作ることそれ自体に意義がある。他人の評価に捕らわれず、自分の納得の度合いで仕上がりを決める。

 「納得するのと諦めるのは違う」と先生は言う。限られた時間の中で、自分のビジョン(想像)を立て、限られた材料と道具を使い、ビジョンに向けて創造する。材料と格闘しながら作る物を決めてもいいし、決めてから作業を始めてもいい。その過程と成果品に作り手の個性が表れる。そして大事なことに、現実は必ずしも理想どおりには進まないことを知る。作業を進めながら、様々な問題に突きあたる。
   「内野先生、こういう時はどうしたらいいの?」
   「ちょっと悩んでください。もうちょっと。」
欲しい材料がなかったり、手順を間違えたことで次の作業がしづらくなったり、自分の技術が未熟だったりと、材料との格闘が理想と現実のギャップを経験の中で埋めていく。折れ曲がった釘や枝を使うことが、規則正しい物の希少さと不自然さを教えてくれる。さらには「どうやって使ってやろうか」と、材料の曲がり具合を楽しめるようになる。

 自分が手間を掛け汗を流し、時には傷を負って創った世界に一つの作品は、完成しきった既製品や手の施す隙もない現代のオモチャよりも、遥かに愛着の持てる素晴らしいものとなっているはずだ。

 今最も必要とされている想像力と創造力は、この図工の時間に大いに要求され成長している。そしてそのような経験は、大きくなればなるほど機会の減る数少ない時間であることが、社会に出てから痛いほどわかるようになる。仲間達と競い合い、身近な同じ小学生の作品を鑑賞することは、もう学校にしかできないことだ。

 体育や音楽の時間と同様、勉強の苦手な子供の憩いの時間になるというだけでなく、勉強以外の価値基準が、世の中に存在することを知らしめる最高の好機となっている。そして、体育と音楽にはない、能力や技術を超えた正解のない表現の場が、図工には存在している。

 そんな楽しくてわくわくする大切な図工の時間は、2002年度から新学習指導要領と完全5日制の導入で大幅に削減されているという。図工が好きでたまらなかった私には、残念でならない。そして少しでも、総合的な学習の時間が『物を創る』ことに充てられることを願って止まない。
◇ ◇ ◇
『トントンギコギコ図工の時間』の公式HP http://www.tontongikogiko.com/
「創造力」と「図工の時間」 〜映画『トントンギコギコ図工の時間』を見て〜
映画に登場する少年。顔中ペンキだらけで創作に没頭。カメラによる影響が出ないように配慮されて撮影された
「創造力」と「図工の時間」 〜映画『トントンギコギコ図工の時間』を見て〜
ただの廃材と使い古しの釘に命が吹き込まれる様子は見ていて圧巻

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[6457] 忍野さんにお答えします
名前:澤崎一幸
日時:2005/02/06 23:31
忍野さん、なぜ私が「やらしい」と思ったかお答えしましょう。あ、その前に、私がスケベであることをお伝えしておきます。
 それは、忍野さんもおっしゃる通り6238で忍野さんが現在は点数にこだわっていないにもかかわらず、同文章の最後に「試験で良い点数をとることが教育なんですか?」と、点数かどうかの構造が私にあるかのようなご発言をされているからです。私は忍野さんもご指摘の通り、興味あるものが別に実技教科じゃなくていいじゃないか、と言いたいにもかかわらず、「能力を引き出せていないから失敗」という6229での私の発言を点数云々に結びつけたくてしょうがないようにとらえてらっしゃる。少なくとも、そうとしかとれない書き方をされてます(ほかにとらえようがない)。「実技教科じゃないから点数」とは私にとってはそれこそ心外というもんです。むろん実技教科だって、点数評価があっても点数だけが能力の指標になるわけじゃないですけどね。また興味関心も能力や点数とは直接関係ありません。
 能力って点数だけではかられるんですか? 36歳の私、既に小学校では単純な五段階評価はなく、教科毎に数項目にわたる細かい目標(算数だと例えば「すじみちを立てて考えることができる」とか)について「よい」「ふつう」「もうすこし」があっただけでしたけどね。中高は教科毎の総合5段階評価がありましたけど。
[6449] 「はぁ?はぁ…」 〜[6270]への応えに代えて〜
名前:忍野タカユキ
日時:2005/02/06 01:13
僕はやらしいです。嫌味だし、うっとおしいし、ずうずうしくて、ついでにスケベです。

でも、どの部分から“「教育=試験で良い点数を取ること」という図式が強烈にインプットされている人物”と印象を受けたんでしょうか?
最後の結論で「子どもの能力を引き出そうとするなら図工・美術、更に技術家庭でも良い点取れなくても問題無いんじゃないんですかね。いや、全ての教科でもそれで問題無いんじゃないんですかね。」と、全く逆の主張をしているんですが。
僕は「教育=自分の頭で考えることを身につけること」と思っています。どの教科でもです。
前文のなかで点数についての記述は2カ所ありますが「テストで良い点数をとるのがうまいことだと信じて疑わなかった私は、…」は過去の苦い経験で、それを反省して「…試験を受けたら何点取れるかは分かりません。」と現在は点数にはこだわっていません。

文中にある「点数」という言葉を指して間違った印象付けをしてるとしたら、澤崎さんもけっこう“やらしい方”ですね。あっ、スケベかどうかは分かりませんが。

(忍野タカユキ)
[6434] 本題に戻るかな
名前:澤崎一幸
日時:2005/02/05 16:02
安住さん、このトシ(36)になってもよく分からないのですが、人は褒められるとそれをそのまま受け取るのが当然な存在なのでしょうか。私は、そのまま受け取るタイプとそうでないタイプとに分かれて当然だと思ってたんですが、安住さんのようにおっしゃる方がけっこうおいでであることを考えると、そのまま受け取る人は相当少ないのでしょうか。
 あなたがおっしゃるように、子どもにとって愛されていると実感できるかどうかが問題なのだと思います。だとすれば、褒められたことをそのまま受け取れるかどうかという表面的なことよりも、子どもの側かどう受け取るかのほうがよほど本質的に思えます。
 で、図工だったらOKだけど算数だったら×というのも、その子どもをそのまま肯定できないということになりかねないわけですよね。
[6413] 澤崎さんは、親にも教師にも恵まれなかった?
名前:安住るり
日時:2005/02/04 12:39

澤崎さんは、自分は育ってくる過程で、親にも教師にも恵まれなかった、とかんがえておられるのでしょうか?
先生や友達に褒められても、素直に受け取れなかったようですね。
「いじけて」あるいは「ひねくれて」いたのでしょうか。

一年前からあなたのお書きになったものを(全部ではないでしょうが)読んでいると、お育ちになった地域社会に対しても、かなり根深い「うらみ」のようなものを持っておられるように感じます。
そのへんの深層心理のようなものを自己分析してみると、ものの見方が大きく変わるかもしれません。
余計なお世話ですが。

因みに私の母は、完ぺき主義の減点主義で、長女の私に対して、いつも厳しい評価を下し、「いじめられた」と泣いても「あんたがわるいんでしょ」と言われ、母から「なぐさめられた」という記憶がなく、成績がよくても「こんな公立の小学校は日本中に何千もある。ここで一番だってどうというもんじゃない」というふうに言われました。5歳下の弟には私に対してよりずっと甘く接していました。
でも、なぜだか、母は私を愛している、と私は確信していました。
厳しくするのは彼女なりの「愛情表現」なのだ、と子供なりに解釈していたように思います。でも「よい母子関係」だとはとても思えませんでした。
私は、母親として、自分の母を反面教師として、子供に自分の価値観を押し付けない、人間として対等の関係を築くように努力してきました。
妥協もいっぱいしたし、「理想」とは程遠い「成長ぶり」の三人ですが、後悔はまったくありません。

以前に、「家族」とか「地域社会」とかについて、だいぶ議論しましたね。
なんか、話がひろがっちゃいました。
[6397] 私の場合は
名前:澤崎一幸
日時:2005/02/04 03:49
安住さん、私の場合、親が原因だったように思えます。小学生って何かと褒められますよね。書き方の時間に、担任のピンチヒッターをやった校長先生に褒められ、家へ帰って喜び勇んで親に報告したら「そんなもん、校長先生がそういう言い方をするのは当然やろ!(ちゃんと見たら)うまく書けとらへん!」って怒られました。そうやって言われれば、子どもは親のほうを信用しますよね。子どもにでもお世辞で言うときがあるんだ、とそのときは子どもなりに思いました。成人してだいぶ経って、あれは私なりにいい点があったことを指摘してくれたのだろうと初めて気づきました。ということは原因は教師ではないんですね。
 しかし、教師というのはいうまでもなく、教員の素養をつけた人々です。こんな親がいるのなら、教師は子どもが子どもなりに自分を肯定できるように図らないと、やがて子どもがスポイルされてしまいます。ですが私が接してきた感じですと、教師は親とうまくやってゆくことを優先していたようにみえますし、教師と親とで私のことをあまりいいようにみていなかったように思えます。サードのエラーはレフトでカバーできなかったのです。
 もともと私がコメントしたのは、元記事に「いわゆる勉強でなければ自分の能力が発揮できる」とでも読めるメッセージが隠れていた気がしたからです。とんでもない、子どもにとって得意なのは図工かもしれないし算数かもしれないし社会かもしれないし音楽かもしれませんし体育かもしれません。この文脈だと、いわゆる勉強の分野に魅力を感じるのは異常ともとられかねません。「頭でっかちはダメだけど体でっかちなのはいい」が日本人の本音のように思えるのです。ダメなのはでっかちであって、頭だろうが体だろうが一辺倒がいけないんですけどね。
[6392] 図工も英語も教師次第
名前:安住るり
日時:2005/02/04 00:56
何の教科も、先生次第で興味がもてたり嫌いになったりする、という側面はありますよね。
もちろん、それにかかわらず、生徒自身の素質や好みで、どうしても好きになれないこともあるでしょう。だから、タイトルのように言い切ることはできませんが、教師の生徒への接し方は、すごく重要ですね。

澤崎さんが、「大人のようにできるのがうまいのだ」と信じるようになったのは、なぜなのでしょうか?
そう思い込んでいなければ、この記事のこどもたちのように、自分なりに素材を組み合わせて何かをつくりあげることを楽しめたかもしれない、とは思いませんか?
[6270] うわー
名前:澤崎一幸
日時:2005/01/25 02:35
なんか忍野さんってやらしい方ですよね。あ、「やらしい」ってスケベだという意味ではなく(そういう意味にも使いますが(笑))、東海地方の言葉で嫌味だとかうっとおしいとかずうずうしいとかそういう意味です。
 それはともかく、忍野さんには「教育=試験で良い点数を取ること」という図式が強烈にインプットされていて、もはや疑うことができなくなってるような印象を受けます。教育ってもっと他の意味にとってもいいもののような気がするんですけどね。別稿でも書きましたけどeducationのeduって引き出すという意味ですから。
 英語についていえば、私の中学時代の先生は音読を何回もさせていました。音読することで、単語も文法も、単なる記号から実感として意味あるものへと血肉化されていったことに、高校のとき気づきました。これがまる暗記にすぎない会話しかやっていなければ、英語の理解なんてできなかったことでしょう。血肉化は受験というものを別にしても必要なことだったと思います。高校までの英語ってどんな目的に使うにもいいようなものであって、会話なんてその目的の一つにすぎません。それを誰が勘違いしたか、コミュニケーションするためのものだという認識が広がっています。広義でいえば英語は確かにコミュニケーション媒体なのですが、高校で必須とされてるのは中学より深い教養をつけることと、大学で文献を読むのに必要という事情があってのことだと思います。かといって文献さえ読めればいい英語ばかり受験で出題すると選抜できなくなってしまうんですね。こうした結果として受験英語はゆがんだわけで、そもそも学ぶことが点数のためだという発想がおかしいんですよ。忍野さんはそういう社会に毒されてるんじゃないですか?
 もし本当に学ぶことが楽しみであり、いきいきとした活動であるのなら、私が図工で経験したようなことは起こらないはずです。それを、中身が伴っていてもいなくても同じように扱おうとするから無理なんです。よく落ちこぼれとよばれる人たちが「分からないのに授業中ずっと机に縛りつけられるのはつらい」っていうでしょ。あれと同じことなんですよ。本人にとって実のあることをするより同じカリキュラムであることにこだわってる。これが本末転倒というものです。むろん「同じ」でないことが分かった瞬間に差別を始める社会も同罪です。
[6238] 私が英語を嫌いだったのは
名前:忍野タカユキ
日時:2005/01/24 03:59
私は図工・美術、更に技術家庭が大好きでした。それは私が器用だったからです。いや、モノ作りが好きだからだと言った方が良いかもしれません。

私は英語が嫌いでした。それは私が英語に対してバカだったからです(言い訳がましいですが、英語以外の主要教科はそれなりの勉強が出来ていました)。
中・高校6年間の英語の授業に対して、何をどうすればいいのか全く分かりませんでした。テストで良い点数をとるのがうまいことだと信じて疑わなかった私は、それが出来ない自分に劣等感を持っていました。でも日本で生活する上で、英語が分からなくても困ることはないと思っていました(大学受験には失敗しましたけど)。

社会に出た後、転職したくなった仕事で英会話能力が必修だったので、英会話教室に通いカリキュラムを自分なりにどう理解すればいいのか考えながら学習したら、必要に迫られていたからかもしれませんが約一年間でしゃべれるようになりました。
でも、未だにブロークンイングリッシュです。英語を使ってコミュニケーションをとることに不自由しませんが、試験を受けたら何点取れるかは分かりません。でもコミュニケーションの道具として役に立っているのならそれでも良いと思っています。

子どもの能力を引き出そうとするなら図工・美術、更に技術家庭でも良い点取れなくても問題無いんじゃないんですかね。いや、全ての教科でもそれで問題無いんじゃないんですかね。
試験で良い点数をとることが教育なんですか?

(忍野タカユキ)
[6229] 私が図工を嫌いだったのは
名前:澤崎一幸
日時:2005/01/23 19:21
 私は図工・美術、更に技術家庭科が嫌いでした。どの分野も、です。それは私が不器用だったからでした。何をどうすればいいのか全く分かりませんでしたし、分かったところで絵にしても工作にしても不恰好なものにしかなりませんでしたし。大人のようにできるのがうまいことだと信じて疑わなかった私は、上手だねといわれてもなんかウソっぽくしか聞こえなかったものです。おまけにクラスメートからも何となく白い目で見られてたような気がするのです。「いわゆる勉強でなければ、これくらいはある程度出来て当然」というのは、日本では大人・子どもを問わず存在しますのでプレッシャーになりますからね。たとえ教育上の評価がなくても世間で評価されてたようなもんです。
 考えてみれば、教育が子どもの能力を引き出すものである以上、私のような者がいたということは教育として失敗だったということなんですよね。これを改めるには、単に少人数教育にするだけではダメで、一斉授業という形をやめないといけないんですよね。個人個人の現状から出発しないといけませんから。(その意味では、やはりフレネ教育はいいと思うんですよね。)

なんかやたらと「図工賛歌」ばかり目立つのであえて一言。
[6187] 総合学習の時間も…
名前:斉藤哲也
日時:2005/01/22 13:42

2002年に導入した総合学習の時間も、減りそうな雰囲気ですね。国語、算数を重視するとか。

目標があって、プロセス(戦略)があって、その進捗状況が結果として出てくるわけですが、試験結果は結果のうちの極一部の側面を見るに過ぎないにも拘わらず、その一面を取り上げてあたかも結果の全容のように取り扱い目標にすり替えてしまうのは、あまりにも危険だし本末転倒な感じがしてしまいます。

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