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文化

ファルージャで何があったのか 高遠菜穂子さんの講演会 (1)

岩崎信二2005/03/15
昨年4月、武装グループによって、一時、人質として拘束された高遠菜穂子さんの講演会が、3月11日(金曜)、旭川の市民文化会館で行なわれた。
北海道 催し NA_テーマ2
 高遠菜穂子さんが、元気な顔を見せてくれた。

 昨年4月、イラクで今井紀明さん、郡山総一郎さんとともに武装グループによって、一時人質として拘束された高遠菜穂子さんを招いて、3月11日(金曜)、道北平和フーラムが、旭川の市民文化会館で講演会を開催したのだ。参加者は約350名だった。

 壇上にたった高遠さんは「昨年(2004年)4月の拘束事件の時は、大変なご心配とご迷惑をおかけしたことをお詫びします」と述べ「皆さんのご支援があってこうやってイラクのことをお伝えできるのは命あってのことで、心からお礼を述べたいと思います」と挨拶をした。

 はじめに、昨年10月に武装勢力によって殺害された香田証生さんの死について触れた。高遠さんが、香田さんの拘束事件を知ったのは、イタリア・ローマのインターネットカフェでだった。「そのニュースを知ってすぐパソコンを切りました。気分が悪くなり、すぐホテルに帰ってトイレでしばらく吐いていました。自分のことと重なってしまった」と話し「今私ができることは香田さんが見たかったイラクを、皆さんに伝えることだと思います」と言うと、声を詰まらせ少しの沈黙があった。

 「今日はファルージャのことを重点的に話したい」と言う、高遠さんの話(スライドでの説明)を紹介(要約)したい。

◆◇◆ なぜ、ファルージャで戦闘が激しくなったのか。

 2003年4月9日(※)にバクダットが陥落してから2週間たった4月24日に、ヨルダンのアンマンに1人で入った。すでにジャーナリストやNGOの人たちが集まっていて、イラクには日本人のジャーナリストたちと一緒に入ることになった。米国ブッシュ大統領が戦闘終了宣言を出した5月1日に、初めてイラクの地を踏んだ。

 別行動をとっていたジャーナリストの人たちがバクダットの街中で、イラン人の青年2人に声をかけられ「ファルージャで大変なことが起きている、どうして誰も取材に来てくれないのだ」と言われたことを聞かされる。

 2人はラマディの青年で、自分たちのお金でタクシー代を払い、ジャーナリストをファルージャに連れて行った。民家に案内されたが、そこの壁には血ふぶきの後があり、床には血のついたタオルや血のついた国旗が落ちていた。一般の車が、銃撃を受けて蜂の巣状態だった。「高遠さん、病院の調査をすると言っていたよね。ファルージャにいかないとだめだよ」と、夕方ホテルに戻ってきたジャーナリストたちは私に言った。

◆◇◆ ファルージャ市内のようす

 翌日、ジャーナリストと青年に連れて行ってもらい、ファルージャに初めて入って見る光景は、米軍が建物の上に土嚢を積んで銃を構えている姿だった。その建物の外壁には、英語とアラビア語で「遅かれ早かれアメリカの殺し屋よ、我々が切り出してやる」と書かれていた。

 以前からファルージャが危ないと言われていたのは、デモが起きていて死傷者が出ていたからで、この日も午後の2時からデモが行なわれる予定だったらしい。空には攻撃用ヘリコプターが何機も飛び回っていた。

 バクダットが陥落してから、ファルージャの学校という学校、小学校から大学まで占拠されていた。大学では登校時、校門で学生も教授も米軍によってボディーチェックを受け、かばんの中もチェックされていた。

 どこの学校も戦車と米兵が駐留していた。小学校では父母会が「子どもたちが学校へ行けないではないか」と不満を募らせ、それを部族長がまとめ、米軍と何度も交渉したが聞き入れてもらえず、米軍はそのまま占拠し続けた。

 ある時、若い米兵がイラク人の18歳や19歳ぐらいの男の子に、面白半分にグラビアなど女性の裸の写真が載っている紙でお菓子を包んで配ってしまった。このようなことがきっかけで、デモに参加する人が急激に増えていった。

 デモが大きくなると、米軍は治安の安定を理由に威嚇発砲をしはじめた。発砲するほうされる方、双方が興奮状態になっていった。そして、発砲に対し石を投げたりしたため歯止めが利かなくなり混乱が大きくなっていった。サマワに2度ほど行ったが、その時もデモがあって同じようなことが起きた。発砲したのはオランダ軍だったが、ここでも市民に死傷者が出てしまった。

◆◇◆ ファルージャの病院

 ファルージャの総合病院に行った時、ベッドにはシーツがなく枕もなく、けが人の腕に巻かれていた添え木はダンボールで代用され、薬品庫には医薬品が殆んどないなどひどい状況だった。

 また、使い捨ての手袋がないのでドクターや看護婦は素手で患者の手当てをしていて、その手は血だらけとなっていた。そのように、終戦宣言した後もどんどん死傷者が増えている状況だった。患者やドクターから「なぜ日本はこの戦争に参加したのだ」と、問い詰められた。

(次回は、長崎で知り合った、アメリカ元海兵隊員ジミーさんとの話)
◇ ◇ ◇
※筆者の申し出により、文中の日付を訂正しました。(4月18日、編集部)
ファルージャで何があったのか 高遠菜穂子さんの講演会 (1)
壇上での高遠菜穂子さん
ファルージャで何があったのか 高遠菜穂子さんの講演会 (1)
建物の上で土嚢を積み、銃を構える米兵
ファルージャで何があったのか 高遠菜穂子さんの講演会 (1)
米兵のいる建物の外壁に張られた幕

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