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「水は人の言葉を理解するんですよ」と聞いたら、どう思うだろう。私は、生物学の研究者であるが特に水の構造に関して特別の知識があるわけではない。しかし、自分の持てる科学に関する知識を動員して、「そんなことはあるはずがない。」と断言できる。 しかし、研究者でもなく、中学や高校で学んだことをだいぶん忘れてしまっていたら、どうだろう。「多分、そんなことはないとおもうけど……」とちょっと自信の無い人もいるかもしれない。そして、そこに道徳的な感情を結びつける仕掛けが存在する場合には答えが更に変わる可能性があるようだ。 「水からの伝言」(江本勝 著 波動教育社)という本があるのをご存知だろうか。あちこちで紹介・批判されてはいる(例えば「世界」(岩波書店)2005年7月号の記事)が、私の周りでもご存じない人も多いようだったので、本記事ではこれまでにこの本に関して指摘されている問題点をまとめ、私の考えも併せて述べたい。 この本は、著者らが独自の手法で作った水の結晶の写真を集めたもので、本を開くと美しい結晶の写真が並んでいる。いろいろなところから取った水(水道水、河川の水など)の結晶が紹介される。ところが、これに続く話は全く驚くべきものだ。たとえば、水に「ありがとう」という言葉を見せる(水をいれたビンに文字を印刷した紙を貼る)と、その水はその後きれいな結晶を作り、一方、「ばかやろう」「死ね」などの言葉を見せた水はきれいな結晶を作らないというのである。もちろん「平和」は美しい結晶を作り、「戦争」は作らないなど、言葉と結晶のあいだには一定の、しかも非常に明快な関係がある。 ご存じない方のために付け加えると、この本とその訴えるところはかなりの広がりを見せている。 (1)著者らのWebsite によると、この著者は全国各地で講演している。国連の関係機関でも講演をしたようである。本もかなり売れているようで、外国語翻訳版も出されている。 (2)教育関係者のグループ でこの本の内容を道徳の時間に取り上げているところがある。 実際にこの内容に関する授業を子供がうけた、という報告も少なくない。 (3)この本の内容を含む)映画がつくられ、かなり名を知られた俳優が出演していて、現在もあちこちで上映が企画されている。出演者の中には、この本の内容についての感動を語っている人もいる。 この本に関する話を聞いたときの反応はかなりさまざまであるようだが、典型的には下のようなもののようだ。 (A)「常識」で考えてありえないので、荒唐無稽だ。 (B)理屈はわからないが結晶はとにかく美しいので感動する。水に言葉が通じるかどうかはわからない。 (C)科学的にはまだ証明されないことかもしれないが、今後科学的にも何らかの証拠が得られるものかもしれない。 (D)この本が訴える精神は大事なことだし、科学で説明されないものだからといって、否定するわけにはいかない。 オンラインの書籍販売サイトにおける書評を見てみると、Aの態度をとる人もいるが必ずしも多数派ではない。B〜Dの態度の人は、他人にもこの本を勧め、この本の影響力は広がっていく。 水が人語を解して結晶構造を変える可能性があるか?という問いに関する科学的見地からの答えは、否、である。すでに詳細に関して述べたサイトもいくつかある(大阪大・菊池氏 ・ 水商売ウォッチング)ので、説明はそちらに譲るが、実際、ことばを水に「見せる」「聞かせる」という実験を行なう段取りを考えるだけでもいろいろな困難さに気づくであろう。 例えば、水の視力はいかほどなのか――どのくらいのサイズで文字を書く必要があるのか?水に「見せる」という目的上、1m四方の紙に大書して5メートル離れたところに置いても水には「見える」はずだが、その場合人語はどのようにして空気を伝播して水に影響を及ぼすのか? これらはほんの一例であるが、厳密にどういう実験を行なうことによってこの本の内容を検証でき、それはそのように説明されるのか、ということを考えれば考えるほど、この本の内容の曖昧さが気になってくる。しかし、それにもかかわらず、この本の著者は自分達が撮った結晶の写真を見せるだけで、そうした疑問に答えるような検証実験は絶対に行なおうとしない。 その理由は、そんなことをしたら自分達の本が売れなくなり、商売が成り立たなくなることを知っているからではないだろうか?著者らはこの本の内容の実証可能性などに関する批判を知っていて、それらの批判を回避しながら活動を続けているところをみると、私には著者らは自分達の言っていることが本当は荒唐無稽であることを知っていながら自分達の儲けのために口をぬぐっているように思われてならない。 これらのことから考えて、上述の、この本に対するA〜Dの態度のうち、Cは適当では無いと私は考える。水が人語を解する可能性は「科学が進めばわかるかもしれないが、現時点ではわからない」のではなく、現時点でもその可能性は十分否定できるのに、著者らはそういう科学的な扱いを避けることによって、あたかも現在の科学では説明できないことであるかのようにしてごまかしているというのが実態であると思うからだ。 この本が訴える内容の科学性と同じくらい疑問なのが、この本の訴える道徳の内容である。既に多くの人が指摘しているが、この本の教える「道徳観」は奇妙なものに思われる。第一に著者のいう、よい言葉、きれいな音楽、ということの結果がきれいな(左右対称で多くの人の美感に訴える)結晶形成である、ということだ。 きれいなものは汚いものより優れているのか?左右不対称なものは対称なものに劣るのか?この考えは、わかりやすいが、きわめて一面的ではないだろうか。 第二に、ありがとう、平和、などの言葉がよい、とする点である。たとえば、自民党と社民党の党首がともに「平和」というとき、それらは同じ意味だろうか? あるいは、ばかやろう、という言葉は常に「汚い」言葉だろうか。ばかやろう、という言葉に愛がこもっている場合もあるのではないか?反対に、心の中ではこん畜生、と思いながらも、表面上を取り繕って、ありがとう、というときも、きれいな結晶ができるということなのか? この本が教える道徳は、たいへんわかりやすいが、多くの点で相対的でしかない言葉の意味を、絶対的なもののように扱おうとしている点、表面的な言葉、美醜に大きな価値を与えている点がなんとも奇妙に感じられる。これらのことから、私は上述Dのような態度も適切であるとは思わない。結論としてはこの本はありもしない現象を利用して、奇妙な道徳を教えるものであるというほかはない。 顕微鏡下の世界は日常の世界ではないため、常識による判断がむつかしい場合があり、自分がよく知らない分野のことだと、正確な判断はためらわれがちだ。そして、まじめな人ほど「従来の常識にとらわれず何事にも虚心坦懐に接しよう」という気持ちも働くかもしれない。 しかし、この、常識にとらわれない、という気持ちはにせ科学を言われるがままに受容してしまう、ということにつながりがちである。事が自力で検証できないようなことの場合にはなおさらだ。「水が人語を解する」という主張をする人々が究極的には何を目指しているのか私は知らないが、これほど問題の多い内容にもかかわらず、本、映画などの関連商品の世のなかでの受け入れられぶりを見ていると何か恐ろしい気がする。 |