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文化

職人たちを育てた芸術村 本阿弥光悦

椿伊津子2005/11/15
今年も11月11日〜13日に洛北・鷹が峰にある光悦寺の秋の風情を堪能できる大茶会「光悦会」が開かれました。本阿弥光悦は芸術文化のリーダーとして相協力し、卓越した作品を多く世に遺しました。
京都 暦 NA
 本阿弥光悦(1558−1637年)  「寛永の三筆」のひとりとして名高い――。

 京都で自慢できるものの一つに、光悦会があります。洛北・鷹が峰にある光悦寺の秋の風情を堪能できる大茶会です。日本全国から選り抜きの古美術商の方々の肝いりで、輪番のように運営されており、道具好きの数寄者にはたいへん魅力的な空間です。

 元和元年(1615年)、光悦は徳川家康から鷹ヶ峯一帯の地を与えられたことを機として、光悦の一族をはじめ町衆の人々と共に移住し、芸術村を築きました。ここには長屋が立ち並び、職人たちが養成され、刀剣、陶芸・漆芸・書画・などが制作されました。

 光悦は熱烈な法華の信徒であり、真摯な行者でありました。彼の信仰は個人的な芸術を打ち立てることよりも、京都町衆、職人たちを光悦村に集め、育て、生活の糧となすよう組織を作ったことにあります。

 陶芸・漆芸・書画・和歌など、卓越した作品を多く世に遺しました。芸術文化のリーダーとしては相協力し、嵯峨本の出版事業にも寄与しました。

 「私式の信心は、只国恩を忘れず、心の正直に悪魔のささぬ様にと信心仕候」と光悦は述べています。

 国を愛し、心の正直なるをモットーとし、人に布施をなし喜捨したという光悦。彼は現代の学校経営者たちの数字に明け暮れるさまを、どのように見ることでしょうか。

 光悦の遺徳をしのび、彼の芸術に触れる喜びのために、全国から光悦会に3日間(11月11日〜13日)、約1800人の客が参集。念のために光悦会の重鎮・赤坂政次さんに先ほど確認の電話を入れましたところ、「正確には、1763人です」とのことでした。

 光悦の墓には、白菊の花が供えられていました。ことしも紅葉のなかに、よき一会をありがとうございました。

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