トップ > 文化 > 旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜
文化

旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜

佐藤弘弥2007/12/13
武相荘に初めてきた時から、書棚の中で特に多田富雄さんと故河合隼雄氏の著作が目立って多いことが気になっていた。正子さんと多田さんとは能が取り持つ縁で、特別の友人だった。当代一流の学者や文化人、芸術家が武相荘に引き寄せられ、縁という花を咲かせたのはなぜだろう。考えながら武相荘を後にした。
東京 風景 NA_テーマ2
前回記事:旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(上)〜

 多田富雄さんと白洲正子さんの別れの儀式

 そのエッセイ「白洲さんの心残り」(白洲信哉著「白洲正子の贈り物」世界文化社2005年刊所収)には、こんなエピソードが書かれてある。

旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>武相荘の母屋全景。新しくなった茅葺き屋根が美しい。(07年12月9日 佐藤撮影)</center>
武相荘の母屋全景。新しくなった茅葺き屋根が美しい。(07年12月9日 佐藤撮影)
 今から9年前(1998)の師走のことである。多田さんのところへ、正子さんから1本の電話が入る。「すっぽんを振る舞いたい」との急な誘いであった。多田さんは、いつものお酒のお誘いと思い、奥様と連れだって白洲邸に出かける。多田さんと正子さんは、言わずと知れた能が取り持つ縁で、非常に話の合う仲である。当日のこと、何故かわからぬが、多田さんの目には、白洲さんのお顔がたいそう「白くてキラキラ」としたイメージに映ったというのである。

 いつものように能の劇評の原稿などを見せているうち、多田さんは、何となく正子さんに「お疲れになったでしょうから、少しお休みになったほうがいいでしょう」と言ってしまった。すると正子さんは、白くキラキラした顔をいっそうキラキラさせて、「すっぽんをお楽しみに」と言い、少し淋しそうに微笑んで、2階にある自室に消えたのであった。多田さんには、その「白い笑顔だけが妙に心に残った」と語っている。

 やがて、すっぽん料理が出て、多田さんも酒がまわり、そろそろ、正子さんも来る頃と思うのだが、いっこうに現れない。料理人が2階に呼びに行くと、正子さんが日頃気に入っていた粉引の徳利だけがやって来て「この粉引の徳利で飲むように」と、渡されたというのである。

 それから3日後、白洲正子さんは、「自分で救急車を呼んで入院し、そのまま帰らぬ人となった」(前掲書266頁)のであった。命日は1998年12月26日。享年88歳であった。

旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>石仏の横辺りから長屋門(入口)方向を撮る</center>
石仏の横辺りから長屋門(入口)方向を撮る
 そのことを多田さんは、エッセイの冒頭で、「白洲さんがなくなられて日がたつにつれ、私にはどうにも胸につかえて、つらいことがあった。思い出すと胸が痛くなる」(前掲書264頁)と書いている。

 多田富雄さんは、それからずっと、この1998年の師走の夜のことが気に掛かり、考え続けた。そうしているうち、2001年、多田さん自身が、旅先で脳梗塞に倒れ、死の淵を彷徨い、左半身不随となり、言葉を失ってしまった。その意味が自分なりに解けたと感じておられるようだ。あの日の白洲正子さんは、自らで別れの儀式を行おうとしたというのが、多田さんのお考えだ。

 それは、あの日、あの時、能の「姨捨」(おばすて)のごとく、白洲正子という老女の最後の美しい「序の舞」が予定されていたのを、自らの一言で、最後の舞を舞わせる機会を奪ってしまったのではないかということだった。

 つまり多田さんは、「少しお休みになったほうが」という自らが発した1つの言葉により、白洲正子さん自身の最後の命の輝きを台無しにしてしまったと思ったのである。それ以来、白洲正子さんを「姨捨」にしてしまったという後悔の念が多田さんの心をずっと支配していたのである。

 多田さんはこのように「姨捨」の能を語る。

 「更科山に捨てられた老女の霊は、月光のもとに白衣の菩薩のような姿で現れ、すべてを超越したような静かな『序の舞』を舞うのである。そこは月光の支配する国なのだ。そして、限りなく現世を懐かしみながら、大宇宙の中に帰ってゆくのである。」(前掲書266頁)

 まさに、多田さんをすっぽんに誘った白洲さんは、この白衣の菩薩だったことになる。すべてを察した多田さんは、脳裏に「姨捨」の序の舞と謡(うたい)を反すうし、涙が止まらなかったそうだ。

 このエッセイを思い出し、私も胸が詰まる思いがした。

旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>長屋門の手前に納屋が改造され炉が配置されいる。遠くに自動車を愛した晩年の頃の白洲次郎氏のパネルが見える</center>
長屋門の手前に納屋が改造され炉が配置されいる。遠くに自動車を愛した晩年の頃の白洲次郎氏のパネルが見える
 人の縁のふしぎ

 人の縁(えにし)とは、まことにふしぎである。それは、時の間に間に咲く花のようなもので、咲いたと思えば散ってしまう類の刹那の花だ。正子さんにとって、能の作者でもある多田さんは、特別な存在だったに違いない。

 私は昨年、ここに初めてきた時から「武相荘」の中で、正子さんの書庫に一番惹かれるのである。そこで気になるのは、書籍の棚の中で、特に多田富雄さんと故河合隼雄氏の著作が目立って多いことだった。おそらく、正子さんは、多田さんの著作を繰り返し読みながら、その奥に流れる真理への飽くなき探求心と能という共通の嗜好から来る日本文化への憧憬の深さに感じ入っていたのではあるまいか。

 正子さん風に言えば、多田富雄氏と河合隼雄氏のおふたりは、小林秀雄氏や青山二郎氏同様、世界を学び、人間を理解し、日本文化を追求する上で、師であり、同志であり、特別な「男友だち」だったに違いない。

 多田さんは、世界的な免疫学者である。「生命の意味論」(青土社)の出版は、日本社会に衝撃的な出来事だった。何しろ、免疫というものを、スーパーシステムと位置づけ、自己と非自己の認識を人間が、無意識的に行っているという、シンプルな発想は、目からウロコが落ちた感じがした。そんな研究者が能の作者でもあるというのは、実にユニークである。

 一方、ユング心理学の世界的な権威である河合隼雄氏は、人間の深層心理に眠る集合的無意識を語り、日本神話の中に、中心が空っぽという構造(中空構造)を発見し、神話学や歴史学、社会学にまで影響を及ぼすに至っている。白洲正子さんを敬愛する文化人は、他にも数え上げれば切りがないほどいる。

 当代一流の学者や文化人、芸術家が、何故これほど、「武相荘」に引き寄せられ、縁という花を咲かせたのだろう……。そんなことを思いながら、武相荘を後にしたのであった。

(終わり)
旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>母屋の前から長屋方向を見る</center>
母屋の前から長屋方向を見る
旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>晩年の正子さんが仕事部屋とした離れ</center>
晩年の正子さんが仕事部屋とした離れ
旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>茅葺き屋根には寿の字が見える </center>
茅葺き屋根には寿の字が見える
旧白洲正子邸「武相荘」の師走 〜日本文化の奥にあるものを探る旅(下)〜 | <center>軒先の柿の実から蜜がこぼれそうだ </center>
軒先の柿の実から蜜がこぼれそうだ
◇ ◇ ◇

ご意見板

この記事についてのご意見をお送りください。
(書込みには会員IDとパスワードが必要です。)

メッセージはありません

下のリストは、この記事をもとにJanJanのすべての記事の中から「連想検索」した結果10本を表示しています。
もっと見たい場合や、他のサイトでの検索結果もごらんになるには右のボタンをクリックしてください。