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韓国でも蘇る小林多喜二

金正勲2008/02/17
多喜二は韓国でも十分通じる作家だと思う。韓国は、過去の経験を教訓として学ぼうとする雰囲気がどこの国より強い。今の韓国が抱える重要な問題の1つだ。多喜二の生き方に刺激され、それを自分の課題として受け入れ、真剣に取り組もうと考える韓国の青年は増えるに違いない。
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韓国でも蘇る小林多喜二 | <center><b>韓国語版『蟹工船』の表紙</b></center>
韓国語版『蟹工船』の表紙
 伊豆利彦氏原著の韓国語版『戦争と文学―今小林多喜二を読む』(本の泉社、2005年)が韓国に紹介されたのは昨年10月8日。韓国社会が日本プロレタリア文学の代表作家小林多喜二に接する機会は、これまであまりなかったが、多喜二を読む読者も少しは増えただろう。

 その後、10月13日に全州大学で開催された「韓国日本語文学会」での伊豆氏の講演は、そこに参加した韓国の日本文学研究者らに刺激を与え、多喜二文学が韓国に本格的に根を下ろすモーメントになったと思う。

 なぜなら、当日講演が行なわれた校内の芸術館は、戦争に反対し民主主義を守るため一生をかけ闘い続けたが、治安維持法違反で特別高等警察に捕われ、酷い拷問で殺害された多喜二を通じて、「帝国主義と文学」の意味を考える熱気でいっぱいであったからである。

 最近その時の講演原稿が伊豆氏から届いた。近く韓国日本語文学会の機関紙『日本語文学』に掲載される予定で、再び韓国でも多喜二が考え直される契機になるだろう。

 多喜二は韓国でも十分通じる作家だと思う。韓国は、過去の経験を教訓として学ぼうとする雰囲気がどこの国より強い。そして、実際そのような歴史を持った国である。日本帝国(韓国では「大」を付けないで呼ぶ)による36年間の植民地生活、民族を南と北に引き離した6.25戦争(朝鮮戦争。韓国では「韓国戦争」と呼ぶ)。その傷跡はいまでも韓国のどこにも見出される。

 それゆえ、イラク戦争の暴力を目撃し、日本帝国時代の武力と抑圧を思い出す人も少なくないだろう。いまも強制連行された祖父が生きているかどうか分らない家族もいる。一方、イデオロギー教育で、南と北がお互いに敵視する現実を悲しい目で眺める青年も多い。胸が裂ける気持ちで不眠の日を送っている離散家族なら、その思いはさらに辛いはずだ。

 多喜二においては労働の問題も重要なテーマであったが、改めてストライキが続いている韓国の労働現場を注視せざるをえない。なぜ労働者・農民は、あのように悲惨な生活を繰り返さなければならないのだろう。今日も労働者への弾圧と無法な人権蹂躙が行なわれる理由はどこにあるのだろう。これは今の韓国が抱える重要な問題の1つだ。

 このような時代だからこそ、韓国の青年らにとっても多喜二の問題は、身近なものであると思う。多喜二は戦争の時代を生きた。そして日本の侵略戦争に反対し、自由と人間解放のため、絶対権力と不正に立ち向かって激烈に闘争したのである。多喜二の生き方に刺激され、それを自分の課題として受け入れ、真剣に取り組もうと考える韓国の青年が増えるに違いない。

 戦争時代、多喜二は労働者への弾圧と搾取の現実を厳しく追及したが、その日本帝国による抑圧と暴力は、朝鮮人に対しては、より過酷に行なわれるものであった。たとえば『東倶知安行』には、「私達は十人、二十人の朝鮮人の群を見ることができる。プロレタリアは故郷を持たない。その標本が朝鮮人だった。そして更にそこに民族的な**関係が入りこんで、文字通り彼等は「故郷」の代りに「風呂敷包」一つを何時でもブラ下げて移り歩いている」と書いてある。

 いかに朝鮮人への描写が悲哀を同伴しているか言うまでもない。ブルジョア階級は、日本人労働者と朝鮮人労働者を差別することによって、日本人労働者の不満を鎮め、労働搾取の根拠を引き出そうとしたのだろう。しかし、朝鮮人労働者への低賃金などの勤労条件は、日本人労働者にも適用される基盤にもなったわけで、そうした状況に怒る日本人労働者もいたはずである。

 多喜二は、『東倶知安行』『蟹工船』『転形期の人々』などの作品を通じて、帝国主義の言いなりであったブルジョア階級の偽善的行為と恥部を赤裸々に告発した。そして、それに激しく対立するプロレタリア階級の挑戦と抵抗の姿を追求したのだが、そこに日本人が「朝鮮人に団結の手を差し出す」ような、労働者同士の連帯可能性も示したかったに違いないと考える。

 最近更新された伊豆利彦氏のブログ「日々通信 いまを生きる」(第273号)には、多喜二が死んだ時の魯迅の言葉を朝鮮問題に引き換え解釈したものがある。

 【朝鮮問題に則して魯迅の言葉をを読むならば、次のようになると思う。日本と朝鮮の人民はもとより兄弟だ。資本家階級はだまして互いに反目させ、対立・抗争させる。しかし、小林多喜二ら無産階級とその先駆達は、血を流してこの対立を乗りこえともにたたかう道を切り開いたのだ。多喜二はそのたたかいの途上に倒れた。我々はこの同志小林多喜二の道を受け継いで日朝両国人民の握手を実現するのだ。】

参照:
第273号 韓国で小林多喜二を読む(ブログ:日々通信 いまを生きる)

 小林多喜二は、1933年2月、警視庁築地警察署の拷問で殺された。その死を追悼する言葉には松田解子のものもあった。松田は次のように歌っている。

 かず知れぬいのち
 かず知れぬのぞみ
 かず知れぬねがいをこめてそれは
 ありし日あなたがたの手にひるがえった
 くれないの旗よ
 今宵 まことにくれないにもえあがれ

 多喜二と松田は秋田県に生まれた同郷作家である。プロレタリア作家同盟横浜支部の依頼で一緒に講演会に参加したこともある。松田は多喜二より2歳年下だった。松田は多喜二を記念する第1回多喜二賞を受賞したのであり、2人の縁は深いものであっただろう。

 ところで、多喜二が死んで18年過ぎた1951年、松田は『地底の人々』に朝鮮人労働者と日本人労働者との関係を密接に描いている。

 ―――しかしそれは、タツ子ではなく、(そして定吉の弟の政吉でもなく)朝鮮人の姜であった。担架の先をかついだ定吉や甚一郎も、あとをかついだ林も鄭も、まわりをまもる橋本や朴も、みな無言だった。そこには日本人と朝鮮人のくべつがなく、男と女のくべつもなかった。そこには坑夫だけが、おなじ地獄ではたらく坑夫だけがいたのだった。
 いよいよ病院に入って姜のからだがベッドにうつされ医者と看護婦が応急手当を終えたとき、そして医者が、「だいじょうぶ、もつ」といったとき、定吉は腹の底から「よかったなァ」とつぶやいて涙をこぼした。「定吉さん、―――みなさん、どうもありがとう、どうもありがとう、どうもありがとう」林と鄭が、朴が、定吉、甚一郎、橋本と手をとりあって、男泣きに泣いて礼をいった。(傍線は筆者)

 花岡川の陥没地域から朝鮮人労働者の姜が救出される場面だが、感動的である。朝鮮人労働者と日本人労働者の連帯はこのようなものと言ってよかろう。ここでは国家イデオロギーから完全に離れ、人間として朝鮮人と日本人が、同僚の救出に一緒に涙をこぼしている。この涙こそもっとも美しい連帯のイメージではないか。

 朝鮮人労働者林と、とく子との関係にも注目する必要があろう。「心配をかけました。ありがとう」と言い、「林が涙を照れるようにほほえんで、じっとひと皮目を見はってとく子にも頭をさげた。とく子は穴に入りたい思いだった」と続くが、ここにも朝鮮人と日本人労働者男女の特別な連帯のイメージが見出されるからだ。

 多喜二が生涯を通じて追求した労働者・農民の問題は、未来に新しい光を照らし出すようなものであった。しかし、それが松田の作品にも具体的に投影されているわけである。

 今年は小林多喜二生誕105年で、いま多喜二についての様々な行事が行なわれている。2月16日(土)には第43回秋田県多喜二祭が秋田市生涯学習センター講堂で行なわれ、韓国語翻訳『蟹工船』を出した李貴源(イ・グィウォン、翻訳者)、李相ギョン(イ・サンギョン、出版者。ギョンは「日」の下に「火」)がパネリストとして参加し、茶谷十六(民俗芸術研究所前理事長)と公開討論をする。それに引き続き17日には第29回大館市小林多喜二記念の集いの席上でも同じ討論を再開するそうだ。

 多喜二はいま時空を超え我々の心に蘇っているに違いない。第43回秋田県多喜二祭を心からお祝いするとともに、多喜二を愛する皆さんと一緒に韓国から応援し、敬愛の念を持って見守りたいと思う。
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