5月4日のソウルは夕方から雨。しかし、ソウル市の主催する音楽祭「High Seoul Festival」の会場、漢江(ハンガン)市民公園の屋外ステージには、大勢の若者が集まり、熱気は最高潮に達していた。
nine柴田剛成(High Seoul Festivalで)
日本で活動するロックバンドnineが登場すると大きな歓声が上がった。
「ヨロブン、チャルチネッソヨ(みんな元気にしてた?)」。ボーカル兼ギターの柴田剛成(28)がそう叫ぶと、それに応えるようにまた歓声が上がる。
nineは柴田とドラムの今村ジン(36)の2人だが、今回はベースを加えた3人で韓国公演に臨んだ。同フェスタの出演は今回で3回目だ。
柴田のトークはすべて韓国語。演奏した6曲のうち「海を越えて」など3曲は韓国語の歌詞だ。「海を越えて」には「国は違っても同じ人間。国境を越えて人間同士の交流をしよう」という柴田のメッセージが込められている。
「日本の観客は周りを見て動くが、韓国の人は自分の好きなように楽しむノリの良さがある」と柴田が言うように、観客らは思い思いに踊ったり一緒に歌ったりとステージを満喫しているようだった。
雨の中、フェスタは盛り上がった
訪れた女子高校生は「昨年のフェスティバルで見て興味を持った。とても格好良かった」と興奮気味。20代の男性は「何と言ってもタケさん(柴田)の声がいい」と絶賛した。
フェスティバルのネットワーク局長を務めるチェ・ギュチョルさんは「nineの魅力は3人とは思えない厚みのある音」と言う。チェさんはnineの初回の韓国公演から関わり、韓国語の歌の発音指導もしている。「nineは韓国への愛情が強く(旅費などは)自腹を切ってでも出たいという情熱があるので、今回もぜひ出演してほしかった」と話す。
「韓国のライブで、初めに『トゥディオトゥラワッスムニダ(ただいま)』って言うのが好きなんです」。柴田は人懐っこい笑みを浮かべて話す。柴田の母親は在日韓国人二世で、柴田は自身のバンドのホームページや自身のブログでも「在日三世」とアピールする。年に2、3回は韓国でツアーをし、韓国でのコアなファンも多い。
昼間は企業で翻訳の仕事をしながら、夜や週末にスタジオに籠って、音を作ったり、収録をしたり。寝る暇がないほど忙しい時もある。それでも、「この生活が楽しい」と、屈託のない笑顔で柴田は言う。
「今は見えなくても、先につながる土台を作っていく一人として、この人生を過ごした。なんかの形で、それが見えてきたときにすごく楽しいと思う」と目を輝かせる。
熱いパフォーマンスと音に、観客は魅了された
●「在日」コンプレックス
実家は福井県敦賀市の港街。商店街でビアレストランを経営している日本人の父と、在日韓国人の母の間に生まれた。
海と山に囲まれた環境で、穏やかな父と明るい母、兄姉の5人暮らしで、愛情いっぱいに育てられた。成長するにつれ、柴田は自分に韓国人の血が流れていることを意識するようになってきた。
小学校低学年になるころには、はっきりと「違い」を感じるようになった。本当は100点のはずのテストに付けられた0点。先生に理由を聞くと「名前がちゃんと書けてない」。約束した友達の家に行けば、すぐ前に着いた友達が家に上がるのを見たのに「いません」。
ショックだった。「見えない、圧倒的な壁を感じた」と柴田は振り返る。理不尽な仕打ちに、幼い心は傷ついた。「在日韓国人であることは不利なこと、社会的に弱いということなんだ」と感じるようになり、それはコンプレックスになっていった。
そんな柴田を変えたのは、大学で東京に出てきたことが大きいだろう。東京外語大でペルシャ語を専攻、アジア地域の勉強などをしながら、視野を広げていった。その傍ら、音楽活動などを通じて、様々な人と交流するようになる。都会の自由な雰囲気の中で、地元では脱げなかった殻を脱ぎ捨てる自信と強さを身につけ、自分のルーツに対する自覚と興味が生まれていった。
そして2004年7月、母親と共に韓国を訪れる。
「それまで、何も言わなかったのに、突然、『お母さんのルーツは韓国だよね。連れて行ってくれ』と言われて…」と母親の景子さん(70)は当時を振り返る。
韓国での光景は、思いのほか柴田の胸を打った。街を行きかうサラリーマンや学生、市場で威勢のいい掛け声をかける女たち…。目に映る一つひとつに、柴田は感動を覚えた。
祖母の生まれ故郷である韓国・慶尚北道の清道(チョンロ)では、親戚に2000年も遡る家系図を見せられた。「何か感じるところがあったのでしょう。言葉は分からないはずなのに、親戚の言葉を神妙な面持ちで聞いていました」と景子さん。
「長い間、自分がちゃんと向き合えてこなかった場所なのに、ちゃんと時間は流れていて、人々が生活を営んでいた。当たり前のことなんですけど…。ハングルも読めないし、言葉も全然分らないのに、なんだかとても親近感を覚えました」と柴田は言う。
●韓国での活動
その1年後、リュックサックを担ぎ、柴田は再び韓国へ行く。韓国で歌いたい――。今度は明確な目標があった。
インターネットで調べたライブハウスにメールを送ってみたが、返事が来ない。結局、片言の韓国語と得意の英語で、かたっぱしからソウルのライブハウスを回り、出演交渉をして回った。3日ほどで5つほどのライブ出演を取り付けた。
そして、2005年10月、初の韓国ツアーが実現した。
大学やクラブが集まるソウル市ホンデの小さなライブハウスで、柴田らのロックは大衆音楽評論家のシン・ヒョンジュン教授(現International Institute for Asian Studies客員教授)の目に留まる。
「私が偶然nineをみかけたのは、いわゆる "punk kids"(ガキんちょ)のための小さなライブハウスでした。彼らの洗練された音楽スタイルと技術には不似合いな場所だったかも知れない。けれども彼らは韓国人の観客にメッセージを伝えようと必死だった」とシン教授は言う。音はもちろん、柴田らの「姿勢」そのものがシン教授の心に届いたのだ。
「High Seoul Festivalに出演してみないか」とシン教授。こうしてnineの韓国での活動は本格的なものになった。
2006年5月のフェスタは、大雨の中、コートを着た大勢の観客で盛り上がった。柴田は音楽が自分を人と繋げてくれることを実感した。柴田にとって在日であることが弱みでなく、自分のアイデンティティを形つくる一つの強みに変わった瞬間だった。
「韓国にはすでにnineの熱心なファンはいるが、彼らの音楽がもっと広く認知されるのには、まだまだ努力が必要。でも、文化間の『かけはし』としてnineはすでに影響を与えてきたし、これからもそうだろう」とシン教授は期待する。
●三世だからできること
韓国との交流を持つうちに、在日一世や二世と接する機会も増えていった。
「一世や二世の時代の方が、僕ら三世なんかとは比べ物にならないくらい辛かったはず。でも、それを僕らが体験するすべもないし、理解しようと努力しても、100%は無理。ただ、彼らができなかったことを今、僕ら三世がつないでできることはあるなって。時代背景的に、結びつけなかった部分を後の世代が修復していくことはできるな、と」
そうしてできた曲が「海を越えて」だ。
長い長い月日を越えて 永遠に続け この思い
時代の風に揺られすれ違い
果たせぬ思い抱え
涙に濡れた悲しみの夜
手をつないだら超えよう
(中略)
忘れやしない離れていても
そのほほえみや夢を
二人を別つ時代であれど
今も生きている 強く
海の向こうで微笑む君を
思い描いて歌う
強く願うよまた巡り合い
二人で生きる未来を
在日韓国人としてというより、むしろ、人間の普遍的な思いを表現したかった。
「あまりそこ(在日韓国人ということ)に縛られたくない。もっと大きいものを表現したい」と柴田は言う。
「今日、日本文化はこうとか、韓国文化はこうとか、明確に定義することは難しくなってきている。むしろ、日本にも韓国にも属さない、nine独特の「文化」が、彼らの音楽を魅力的にしているのだと思う」とシン教授。
もちろん、在日韓国人であることを公言して日本と韓国で活動していく限り、国籍や出身を意識せざるを得ないときも多々ある。竹島、靖国参拝、歴史教科書などについて、現地の新聞社のインタビューで「君はどういう考えを持っている?」と聞かれることもあった。2ちゃんねるで、差別的な攻撃にあったこともある。
戸惑った時期もあったが、今は何を聞かれても、国籍や出身を通してではなく、自分個人としての意見を言えるように、常にアンテナを張る。
来年は、イランの文化交流フェスティバルに出演が決まっている。得意のペルシャ語での曲作りも考えている。
「世界中のフェスタに出てみたい。そこで生活する人の姿や地域が抱える問題をこの目で見てみたい。そしてそこから、できることを探していきたい」
柴田が見る夢は、アジアを越え、世界に広がっていく。
(一部敬称略)
歓声の中、公演は絶頂へ(=写真は芳賀恵)
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