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『文芸春秋』8月号を7月12日、購入した。この時、すでに、戸塚洋二氏が2日前の10日に亡くなっていたとは知らず、【ノーベル賞に最も近い物理学者が闘う生と死のドラマ・がん宣告「余命十九カ月」の記録・戸塚洋二&立花隆(136〜150ページ)】を先ず一気に読んだ。 周知のように、立花氏も既にがんを病んでおり、膀胱がん手術の体験記「僕はがんを手術した」(『文芸春秋』08年4〜7月号)を書いている。この記事を読んだ戸塚氏がご自身のすさまじい闘病記録をメールに添付して送った。その内容は立花氏が全く驚き入ってしまう程のものであったという。 8月号巻末の「編集だより」には、本記事に対して5行ほどのコメントがあるのみで、この対談がいつ行われたか分からない。対談で「余命19ヶ月と宣告されたが、25ヶ月生きてきた」と述べておられるので、文春7月号の発行直後、多分、6月の今時分ではないかと思う。戸塚氏は対談で、「あと5ヶ月生きたいと、馬鹿な事を考えている」と言っておられた。 この対談で私が非常に感銘を受けた点は、戸塚氏が非常に冷静に自己の死を受け止めておられる事と、自然科学者、特に実験物理学者としての諸方法論を、自身のがんの進行の諸状況の記述・解析等に見事に適用している事であった。さらに、悟りとは、「いかなる時でも平気で生きる」で「平気で死ぬ」より凄い事だ、と言うのである。私は、16歳も私より若い戸塚洋二氏に種々の貴重なものを残して戴き感謝すると共に、ご冥福をお祈りしたい。 以下、極めて簡単に戸塚氏の略歴等を記す。 65年東京大理学部卒。大学院博士課程を修了し、助手、助教授を経て87年教授。岐阜県飛騨市神岡の鉱山の地下約1,000mに建設したニュートリノ観測装置カミオカンデで、小柴昌俊東大特別栄誉教授とともに実験に取り組んだ。 96年に始まった後継機のスーパーカミオカンデによる実験を指揮。宇宙から飛来する宇宙線が地球の大気にぶつかって発生する「大気ニュートリノ」の観測から、ニュートリノが飛行中に別の種類に変わるニュートリノ振動という現象を発見。ニュートリノに質量があることを突き止め、素粒子の標準理論に修正を迫る歴史的な成果となった。 00年10月、11月中旬、最初の手術を受けた。翌01年11月、スーパーカミオカンデで大規模な破損事故が発生した。体調が悪化する中、事故原因の究明や観測再開に向けて精力的に指揮を執った。 戸塚氏は7年前に大腸がんを発症、週1回の抗がん剤投与を受けながらセンター長を務める日本学術振興会学術システム研究センター(東京都千代田区)に通勤していた。再発と左肺への転移に続き、右肺にも腫瘍(しゅよう)が見付かり、3年間務めた高エネルギー加速器研究機構長を退職。抗がん剤による本格的な化学療法を開始していた。やむなく一線は退いたが、ニュートリノ研究への情熱は最後まで衰えなかった。 謎の素粒子ニュートリノに質量があるとの研究成果は、クリントン米大統領(当時)が「根源的な理論を変える」と讃えた。また、宇宙に広く分布する暗黒物質の正体を考える上でも注目を集めた。 小さいときは成績が悪く、人付き合いも苦手だったが、恩師の小柴昌俊・東京大特別栄誉教授(81)なる名馬喰に見出された。小柴氏は「戸塚君は大学院入試の筆記試験は合格点に達しなかった。しかし、研究者に必要なのは既存の知識ではなく意欲だ」等と採用した当時を振りかえったという。 小柴氏のノーベル物理学賞に繋がり、また戸塚氏が施設長を務めた、思い出の東京大宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設の現在の施設長は鈴木洋一郎氏。「スーパーカミオカンデの成果は、戸塚さんの強いリーダーシップがあってこそ生まれた。研究への姿勢は非常に厳しく、いいかげんな実験解析など絶対に許さない人。いい意味で怖い先輩だった」と言う。 また1人、極めて優秀な、しかもかなり若く有為の人材が逝った。重ねて心よりご冥福をお祈りする。 |