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山本義隆(やまもと よしたか、1941−) 闘争組織形態 全共闘組織は、学生運動史上画期的な意味をもっていた。すなわち、大学自治会は戦後いち早く再建され、戦後学生運動の最大拠点となった。その後を受け継いだ全共闘運動は、この自治会組織を称して「ポツダム自治会」であると断罪、全面的に否定・止揚の対象とした。そこでは、ブルジョアデモクラシーは、たんに「多数を正義」とする欺瞞的イデオロギーに過ぎないことを、以下のように暴き立てている。 1.既成の大学自治会は、学校当局公認であることに示されているように、戦後ブルジョア・デモクラシーという「形式民主主義」の虚妄性を象徴した自治組織に過ぎないこと。 2.全員加盟制による全員投票と多数決方式を形式原理とする運用形態は、間接民主主義を原理とした代行主義に過ぎないこと。 3.例えば、「国会が国権の最高機関」と定めた憲法規定にあるように、結果的には、この多数決原理を支配の根拠とした代行民主主義がブルジョア支配の実態的形態として、間接民主主義の仮面を被った擬制ブルジョアデモクラシーの本質をなしていること、等をもって断罪の根拠とした。 それを超える真の闘争組織=団結形態として登場したのが全共闘組織である。この闘争組織形態は、第1に、闘うことを目的とした自由で自立した主体の決意性と責任による参加を前提とすること。第2に、これを前提に直接民主主義を運営原則とした大衆的戦闘組織(人民民主主義的自主団結形態)としての全共闘会議(コンミューン型団結組織)という運動組織形態を提起・実現を目指したこと。 したがって、この全共闘組織=コンミューン型団結組織の特徴は、第1に、セクトとノンセクト、学生と研究者、全学組織と横断組織、個人加盟組織と全員加盟組織が、何らの序列もなく渾然一体化した組織的形態である。第2に、組織運営に関しては、1.指導部は置かない、2.議題は全員討議=直接民主主義制であること、3.組織の維持を自己目的化しないこと、等運営原則を確認した。 補足すべきは、パルチザン5人組軍団=共産主義労働者団(京大パルチ)である。そのスローガンのなかに政治的動機と意図が示されている。 「全共闘を解体せよ!全共闘の既成性、自然発生性を解体せよ!全共闘をソヴィエトへ、労学ソヴィエトへ、革命的に解体せよ!」(滝田修、『パルチザン前史−京大全共闘〈秋〉のレポート』69年12月)というものであった。だから、ポツダム自治会の一歩先に全共闘組織があるとすれば、このパルチザン5人組軍団は、さらにその二歩先を提起したのであった。 闘争の形態と規模 「全学バリケード封鎖」「徹底抗戦」が主要な闘争形態であった。闘争規模は、69年初頭バリケード封鎖のまま越年した大学は15校、最盛時には全国70数校へと波及、さらに「紛争状態」に至った大学は全国主要大学の半数以上165校となり、学生運動史上空前の規模と拡大をみせた、と同時に、70年安保・沖縄闘争と合流すべく大衆的街頭武装叛乱の出撃拠点となった。 アンチテーゼ バリケードの中では、既成のアカデミズムに対置するアンチテーゼとして「反大学―自主講座運動」が創造的かつ広範に実施された。過去の思想の点検、教え・教えられる関係性の再構築等を目指して、多くの教員、学生、市民、労働者、農民が参加した。 以上のように、全共闘運動は社会的政治的背景と規模に関しても、また、到達した論理と思想の実態的位相や内実においても、60年安保闘争を上回る史上空前の闘争として、より激烈に展開された。その全共闘運動が残した足跡は、疑いもなく、その時代を生きた者達が打ち立てた文字通り歴史の金字塔であった。 69年、山本が全国全共闘連合議長に選出されたのは、大学院在籍中であり、そのまま東大安田講堂事件の首謀者として逮捕された。その後、全国全共闘組織が解体して運動が停滞した後も、東大の地震研究所や応用微生物研究所で継続して展開された闘争に参加。さらに、農学部臨時職員雇用問題を巡る闘争も長期間展開されたが、山本は少数の活動家の一人として最後まで係わった。 多くの活動家達も、かっては、一連の全共闘運動の中で自己措定の道を模索した。一方では、否定的な存在としての自己と、他方では、目指すべき運動主体としての自己との相互止揚のための内在的接点を模索した。たとえ、そのような模索への試みが一時的な志向であったにせよ、全共闘世代の活動家達は、誰もがその井戸の深みを覗いた。しかし、そのようなかけがえのない原体験を胸の奥にしまい込みながらも、70年安保・沖縄・全共闘運動の退潮と共に、多くの活動家が大学に復帰していくという、ポスト全共闘情況に曝されていった。そのような情況の中にあっても、山本は大学の闘争に係わり続けたのであった。 結局、闘争を見届けた後、山本は大学へ戻らなかった。教育の矛盾の結節点ともいうべき大学予備校を選んだ。その後、元全共闘議長としての山本は「長い完黙」(塩川喜信)を続けたが、その完黙の意味を明かすキーワードは、在野の物理学徒であり続けた、という事実の中にあるのかも知れない。76年、学校法人駿台予備校に勤務することになり、一物理学徒、科学史家として研究生活へ入った。以後、在野の物理学者として大きな功績を残し、沈黙への回答に代えていったのかも知れない。 予備校生からは高い評価と人気を集め、大学で物理学、科学史、科学哲学を学ぶ多くの物理学徒を送り出し、自らも物理学者、科学史家としての研究を続けた。学界に属さないため、東大物性研図書館で図書閲覧を拒否されるなど、在野の研究者の不便を強いられた。また、「研究者集団との没交渉」に不安を抱きつつも、予備校の教え子達が外国から送ってくれた資料のコピーに助けられることも多かった。 このような孤高の物理学史研究の中で、プロの研究者が考えつかなかった独自の論点(遠隔作用)と、綿密な文献考証によって画期的な力学通史『磁力と重力の発見』(全3巻、みすず書房)を発表した。この著作が、03年に第57回「毎日出版文化賞」、「朝日新聞第30回大佛次郎賞」を受賞したことは広く知られている。 著作の内容は、磁力と重力との親縁性を通じて、西洋近代科学の誕生を解き明かしたものである。とくに、その成立根拠を問い直すことにより、社会の学問に対する姿勢に、とりわけ、理科と文科の乖離が進む現在の日本社会に対する、大きな学問的示唆を発掘した。また、古代・中世に関する科学史的な考察は、我が国に類書を見ないとされている。 しかも、この科学通史は、専門の研究者集団以外によって「手探りで勉強を続けながら」書き上げられた著作である。 そのような研究の形態と独創的な業績とを称えて第1回「パピルス賞」に輝いた。その「パピルス賞」とは、03年、財団法人・ 関科学技術振興記念財団(日本の紙パルプ産業の発展に貢献した故関博雄氏を記念する財団)が、設立10周年を記念して創設した賞である。受賞対象は、過去1年間に刊行された書籍の中から、制度としてのアカデミズムの外で達成された学問的業績や科学ジャーナリストの仕事のように、学問と社会をつなぐ役割を果たした業績に中から、科学・技術書部門、人文・社会科学書部門より各1点を選び、顕彰するものであった。その意味からして、顕彰趣旨にもっとも相応しい受賞となった。 なお、動静に関して2点を補記しよう。 87年、「68・69を記録する会」を結成し、6年間かけて、全23巻「東大闘争資料集」を完成させた。その内容は、67年医学部研修協約闘争から、69年2月までの学内のビラ・パンフレット・討論資料・学生大会議案・当局文書等を、5100余点収集・整理し、1万数千枚のゼロックス・コピーに落としてハード・カバーを製本し、さらに、そのすべてをマイクロ・フィルム3本に収めた資料集である。93年、マイクロ・フィルムと共に、国立国会図書館と大原社会問題研究所に寄贈した。04年、2つの公安事件に物理学者として証人出廷し、検察側の証拠に対してきわめて有効な反証を行った。 主な著書、『知性の反乱−東大解体まで』(前衛社、69)。『古典力学の形成』(日本評論社)。『解析力学T,U』(共著、朝倉書店)。熱学思想の思想的展開』(現代数学社)。『磁力と重力の発見』(全3巻、みすず書房、03)。他翻訳書数点。 |
東大闘争の象徴、安田講堂。東京発フリー写真素材。
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