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GHQ案を手交され「白洲次郎」もビックリ 「憲法大臣」の金森徳次郎をして、「人間解放の一大事が昭和21年に日本の天地に実現せられた」と言わしめた日本国憲法。その日本国憲法の「素」が、初めて日本人の目に触れたのは、昭和21(1946)年2月13日のことです。この日初めて、3人の日本人に「GHQ案(マッカーサー草案)」が示されました。 「GHQ案」提示の舞台は外務大臣公邸で、居合わせた松本烝治国務大臣、吉田茂外務大臣、吉田の側近の白洲次郎終戦連絡中央事務局参与が如何に驚愕したかは、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』下や古関彰一『新憲法の誕生』にリアルに描写されています。 政府がGHQ案を基に日本案を起草しようと決定したのは、ようやく2月26日のこと。以後、日本国憲法は誕生に向かって歩みを進めて行きます。 1946(昭和21)年2月26日の閣議で、GHQ草案に基づいて日本政府側の案を起草し、3月11日を期限にGHQに提出することが決定されました。松本烝治国務大臣は、佐藤達夫法制局第一部長を助手に指名し、入江俊郎法制局次長にも参画を求めるとともに、自ら第1章(天皇)、第2章(戦争ノ廃止)、第4章(国会)、第5章(内閣)の「モデル案」を執筆した。 他方、松本から起草の下命を受けた佐藤は、随時、入江と協議しながら、総理大臣官邸の一室で極秘のうちに作業を行い、松本の起草した「モデル案」の第1章、第2章に佐藤の起草した第3章以下(第4、5章を除く)を加えて、2月28日に「初稿」を完成させました。 初稿には、同日、松本と入江、佐藤との打ち合わせの結果訂正が加えられ、それに「モデル案」の第4章、第5章を加えて、「第二稿」となった。3月1日、二回目の打ち合わせが行われ、第二稿にさらに訂正が加えられました。 この間何度か、GHQから日本案を至急提出するよう促されたため、急いで案文を整理し、3月4日午前、松本と佐藤がGHQ民政局に提出した。この時同時に、松本の作成した「説明書」も提出しました。提出が早まったため英訳が間に合わず、案文と「説明書」は、日本文のままであったといいます(国立国会図書館・電子展示『日本国憲法の誕生』より)。 「人民」は一晩で「国民」になる 憲法誕生に至る経緯の一部は上記のとおりですが、ここでは憲法の条文の中に、日米交渉を経て生まれた「国民」という「日本語」を巡り考えてみたいと思います。GHQ案では、例えば「前文」の“we, the japanese people, acting through our duly elected representatives in the national diet”あるいは「第9条(現行11条)」の“the people of japan are entitled to the enjoyment without interference of all fundamental human rights.”のように、主語は“people”であり、訳語としては「人民」が当てられていました。 政府の日本語訳でも「我等日本国人民ハ、国民議会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル我等ノ代表者ヲ通シテ行動シ」あるいは「日本国ノ人民ハ何等ノ干渉ヲ受クルコト無クシテ一切ノ基本的人権ヲ享有スル権利ヲ有ス」(外務省仮訳)と「人民」の訳語を当てています。 しかし、「人民」の語は、昭和21(1946)年3月4日から5日にかけての「徹宵交渉」において、ことごとく「国民」に置き換えられてしまいました。「人民」の言葉は「排他的」で天皇制に反対する意味合いから嫌われ、逆に「国民」は「国家の一員」という意味合いを持つため“people”の訳語に選ばれました(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』下)。 このことの意味は、単なる訳語の問題ではなく、「外国人」特に戦後日本に残留した台湾、朝鮮など旧植民地の人々を憲法上の様々な保障から排除することでした。 「徹宵交渉」において、“people”=「国民」になったのは、GHQに対し日本側の説得が奏功した結果です。「徹宵交渉」の立役者は、法制局第一部長であった佐藤達夫です。3月4日から5日にかけての交渉の席には、初め松本烝治と佐藤達夫、白洲次郎の3人(他に公式通訳官2人)がおりました。しかし、松本はケーディス大佐と口論し怒って帰ってしまい、2度と戻ってくることはなく、白洲も常時その席にいたわけではなかったようなので、唯一「徹宵交渉」の一部始終に立ち会った佐藤達夫は、非常に重要な役割を果たすことになりました。 佐藤は「国民」とは「あらゆる国籍の人々all nationals」のことだとGHQに説明し、“people”の訳語を「国民」とすることにつき、ホイットニー准将(民政局長)とケーディス大佐(民政局次長)の許可を得ました。2人は「人民」と「国民」との区別をあまり重要とみなしませんでした(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』下より)。 “people”が「国民」になった理由 日米のやりとりの様子は、ケーディス民政局次長の司会の下で論議が戦わされたようです。しかし、アメリカ側はある「事情」を抱えていました。それはGHQ民政局では、日本語の訓練を受けた有能な尉官が、一群の二世たちと一緒に翻訳や通訳の仕事に従事していたのですが、その尉官が民政局の幹部会議に招かれなかったため「用語」の理解の点で難があり、そのためアメリカ側は「説得力」の点で難があった、という事情です。 その結果これらの論議の司会役のケーディス次長は、「日本側官僚のほうに分がある」と思いこまざるをえなかった場面もあった、とトマス・A・ビッソンは語っています(『ビッソン日本占領回想記』)。 ビッソンはホイットニー民政局長付「特別補佐官」という肩書きを持つアジア学者で、憲法第4条の修正(天皇の権能の削除)に大きな役割を果たした人物です。ビッソンは「国民」について、こう証言しています。 混乱の多くは、もっとも単純なはずの“ピープル”に該当する適切な日本語を何にするかという問題からきていたようです。この場合、ホイットニー民政局長とケーディス次長は、はじめから民政局翻訳班を無視し、これに反対するあらゆる努力に関わらず、当初の決定を守りつづけました。 局員は、英語の“ピープル”という言葉の意味は、日本語の「人民」によってのみ十分に置きかえられると主張しました。民政局のスタッフは、ローズ=インズの辞書を用いて「国民」を使ったのでは、「ネーション」という言葉のもっている意味のたった一つしか意味しなくなると指摘しました。 にも関わらず、日本政府代表は、この「国民」という言葉に固執しました。そして結局、日本側は最終合意文にこの言葉を使わせることに成功したのです。こうして「ピープル」には「国民」の語があてられ、憲法前文に計8回、天皇の地位を規定した重要部分である第1条に1回、用いられることになった。「国民」の語は最初期の諸草案ですでに用いられ、ついに最後までそのまま残されたのです(『ビッソン日本占領回想記』)。 多段階で旧植民地の人々を憲法保障から排除する 「人民」が「国民」へと置き換わる過程は、憲法上の保障から「外国人」が排除される過程でもありました。この「徹宵交渉」での“people”=「国民」化が、旧植民地の人々を憲法保障から排除する第1段階とすれば、交渉終了後に政府が急遽GHQに電話を入れ、外国人の人権保障規定を削除したのは第2段階です。 要綱発表の前日の3月4日の真夜中、佐藤達夫は外国人の人権規定についてつぎの条文でGHQとの合意をみていました。「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ政治上、経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ」。 しかし佐藤は不満でした。右の条文から「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の2カ所を削除したかったのです。 そこで首相官邸に帰ってまもない頃、一方で翌日の要綱発表にむけて確定案の作成作業に忙しく、他方において閣議が開かれているという、まさに戦場さながらの官邸から、GHQへ電話を入れた。 直接の交渉は英語の上手な白洲が話した。GHQ側はこの提案をあっさり受け入れ、「凡テ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ、・・社会的地位又ハ門地ニ依リ・・」ということで合意ができた。これで草案から直接外国人の人権を保障する規定はすべて消えた(古関彰一『新憲法の誕生』)。 これを承け、3月6日発表された「日本国憲法改正要綱」、4月17日の「日本国憲法改正案」は次のように変わって行きます。 「日本国憲法改正要綱」第13条@凡ソ人ハ其ノ法ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、 社会的地位又ハ門地ニヨリ政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ差別ヲ受クルコトナシ。 「日本国憲法改正案」第13条@すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、 性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受 けない。 「要綱」では、「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の2カ所が削除されて主語は「人」になっており、「改正案」にいたっては主語はついに「国民」に変わってしまいました。現行憲法第14条との違いは「差別を受けない」が「差別されない」に変わっただけです。こうして日本国憲法での「法の下の平等」は、「国民」にしか適用されない規定になってしまいました。 「外国人」排除の第3段階は、日本国憲法を審議する過程で次の条文を新設したことです。 日本国憲法第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。 これは明治憲法第18条「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」に相当します。しかし、当初、「憲法改正案」の提案者たる政府は、このような条文の設置を考えていなかったことが明らかになっています。政府が憲法審議の議会に臨むため用意した「想定問答集」によれば「問 『すべて国民は、』の『国民』の意味如何。『何人の』とあるのはどう異るか」に対しては、次の様な答が想定されています。 (一)国民といふのは、わが国の国籍を有する者を指称する。我国の支配権に服する者の中でも、我国に居住し又は滞在する外国人及び無国籍人を含まない。(略) (二)現行(明治)憲法第18条の「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」の規定のようなものがなぜ欠けてゐるか、といへば(1)国民といふ範疇は、本来法の規定を俟たずに、条理的・慣習的に定まるものであって、現行憲法の下においてすら、国籍法ではすべての場合をカヴァーして居らず、又条約によつて定まる場合もある。要するに国民といふ事実上の存在を、法律で規定することは、無理でもあり不適当でもある。(2)従来とことなり、今後は明文がなくとも法律事項たることには論がない。故に法律に委任する規定は、意味がない。(3)新憲法は現行憲法との間に法律的持続性のあることは、マ元帥声明にも明らかである。故に現行憲法下において国民と観念される者が、当然新憲法下でも国民として引き継がれてゐるのであって、あらためて規定を置く必要はなく、下手をすると、かへってこの関係を混乱させるおそれがある・といった理由が考へられる。(略)(佐藤達夫『日本国憲法成立史』第三巻) このような「想定」であったものが、実際には「秘密小委員会」で多少論議されただけ(条文新設に関する小委員会秘密議事録では半ペ−ジ分も議論されていない)で、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」という日本国憲法第10条が新設されることになりました。憲法の起草者が「要するに国民といふ事実上の存在を、法律で規定することは、無理でもあり不適当」でもあり、あらためて規定を置くことは「下手をすると、かへってこの関係を混乱させるおそれがある」と用心した規定が、にわかに憲法条文として置かれることになったのです。 「国民」とは「日本国籍の人々 Japanese national」のこと 「国民」とは佐藤達夫がGHQに説明したように「あらゆる国籍の人々all nationals」ではなく、実際には日本国憲法第10条の英文訳が示すとおり「日本国籍の人々 Japanese national」を指す言葉でした。 Article 10. The conditions necessary for being a Japanese national shall be determined by law. そしてそれは昭和25年に成立した「国籍法」でさらに明らかになります。 国籍法(原条文) 昭和25年法律第147号 (この法律の目的)第一条 日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。 (出生による国籍の取得)第二条 子は、左の場合には、日本国民とする。 一 出生の時に父が日本国民であるとき。 二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。 三 父が知れない場合又は国籍を有しない場合において、母が日本国民であるとき。 四 日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。 ※現行国籍法は、昭和59年の法改正において「一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき」などのように改められた。 戦後に誕生したこの新「国籍法」は、次に掲げる戦前の旧「国籍法」とは、調子を異にしています。すなわち、旧「国籍法」では「日本人」の父を持つ子は「日本人」としていますが、新「国籍法」では日本「国民」の父を持つ子は日本「国民」としています。 旧国籍法 明治32年法律第66号 第1条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル 父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ 「想定問答集」にいう「現行(明治)憲法下において国民と観念される者が、当然新憲法下でも国民として引き継がれてゐる」という言葉とは裏腹に、2つの憲法の下での「国民」はそれぞれ異なるものとする意図があったとしか見ることが出来ません。そして 実際にきわめて乱暴なやり方で、旧植民地の人々は法令上の諸権利を剥奪されて行き、初めに「参政権」が剥奪されました。 旧植民地出身者参政権との関係 日本が第二次世界大戦に敗北した後、植民地支配していた朝鮮、台湾、樺太は独立するか、あるいは他国の領土となりました(日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている)。しかし、これらの地域の出身者は、法律上なお日本国籍を持つとされていました。 日本政府は、これらの植民地の出身者が参政権を行使することを恐れました。これは、在日旧植民地出身者達を、治安維持の脅威として見ていたためです。 清瀬一郎は、植民地出身者が10議席以上獲得する可能性があると指摘し、民族紛争や天皇制廃止論と結びつく危険性があると説き、参政権を行使させてはならないと強く主張しました。 そこで、旧植民地出身者を戸籍から外した上で、昭和20年(1945年)12月15日、戸籍法の対象外となる旧植民地出身者(ただし樺太のアイヌは除く)の選挙権を「当分の間」停止する衆議院議員選挙法改正案を可決・成立させ、12月17日に公布しました。 その後、旧植民地出身者は名実共に日本国籍を失いましたが、同様の条文は、現行の公職選挙法附則第2項にほぼそのまま残っています。しかし、選挙権の停止を強引に進めたことは、後年の外国人参政権問題の遠因ともなりました。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) したがって、昭和21(1946)年4月、戦後初めての総選挙が実施されましたが、旧植民地の人々は選挙権を失っており、投票に参加していないのです。次いで、昭和27年、日本の独立に伴い、旧植民地の人々の国籍が一片の通達によって剥奪されました。 「国民」が「者」になるための第一歩が… 「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」 近く平和条約(以下単に条約という。)の発効に伴い、国籍および戸籍事湾に関しては、左記によって処理されることとなるので、これを御了知の上、その取扱に遺憾のないよう貴管下各支局及び市区町村に周知方取り計られたい。 第一、朝鮮及び台湾関係 (1)朝鮮及び台湾は、条約の発効の曰から曰本国の籍土から分離することとなるので、これに伴い、朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて曰本の国籍を喪失する。 (2)もと朝鮮人又は台湾人であった者でも、条約の発効前に内地人との婚姻、縁組等の身分行為により内地の戸籍に入籍すべき事由の生じたものは、内地人であって、条約発効後も何らの手続を要することなく、引き続き曰本の国籍を保有する。 (3)もと内地人であった者でも、条約の発効前に朝鮮人又は台湾人との婚姻、養子縁組等の身分行為により内地の戸籍から除籍せらるべき事由の生じたものは、朝鮮人又は台湾人であって、条約発効とともに曰本の国籍を喪失する。 なお、右の者については、その者が除かれた戸籍又は除籍に国籍喪失の記載をする必要はない。〈以下省略〉 (昭和27年4月19曰 民事甲438号法務府民事局長通達) 一片の通達によって「ほしいままに」その国籍を奪われ、いきなり「外国人」とされた旧植民地の人々は多大な損害を蒙ることとなりました。憲法第10条は金森徳次郎の言葉を借りるならば、とんでもない「悪魔的降災者」になったわけです。 歴史に「イフ」はありませんが、“people”の訳語が仮に「人民」のままであり、「国民」になっていなかったとすると、「日本人民たる要件は、法律でこれを定める」という憲法第10条が出来ていたでしょうか。何かしっくり来ません。 「臣民」ないしは「国民」と「人民」とは、本質的に異なる証左なのでしょう(ちなみに「国民」とは国に服従する新しき「臣民」であると金森徳次郎は議会答弁しています)。 冒頭で述べたとおり「人民」が「国民」に変わるのは、たった一晩で済みました。しかし、それを逆にするには、すなわち「国民」が「者」に変わるのには、実に長い歳月を要しました。 昭和34年成立の「国民年金法」は、被保険者の資格に日本国籍を要件としており、「日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の『国民』は、国民年金の被保険者とする」とされていました。この条文が現行の「日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の『者』は、国民年金の被保険者とする」へと変わるには、わが国が「難民条約」を批准する昭和56(1981)年まで待たなければならなかったのです。(続く) |