トップ > 政治 > 私が州制を支持する理由 東京の繁栄 地方の疲弊
政治

私が州制を支持する理由 東京の繁栄 地方の疲弊

土井彰2009/03/27
結論的に言えば、地方の活性化のためには、もうこれ以上東京に教育・文化施設を集中させてはならないのだ。むしろ「地方にこそ重点的に国費を投入する」べきなのだ。そうしないと、もはや日本は、東京のみが生き残った「一将功成りて万骨枯る」極めて奇形の状況に陥ってしまうだろう。その危機は目前にある。
日本 合併 NA_テーマ2
1.対馬問題
 日本は美しい、と思う。とりわけ、2年前に中国の古都・西安に2か月「留学」して、歴史上の遺跡や遺物をたっぷり堪能はできたものの、しばしば襲ってくる息もできないような汚染された空気と、青空をほとんど見たことがなく、いつも霞んでいた太陽のもとでの生活を体験してみたあとでは。

 日本は四方を海に囲まれている。しかし現在、大都市圏の海岸はことごとくコンクリートで固められ、海はゴミや生活排水、工場排水の流入で悲惨なことになっている。とはいうものの、一歩大都市圏を離れて、日本海側などの過疎にあえいでいる地域の海岸線を歩いてみると、環境汚染で昔に比べ格段に汚くなっているとはいえ、それでも素人目には、海も空も「まだまだ美しい」。

 そういう「美しい国」の「美しい国境の島」対馬で、韓国人による不動産取得が急増している由で、このままではそのうち対馬が韓国領になってしまう、という危機感を抱いた一部政治家や地元民から、政府の対策を要請する動きが出ている、と報じられている。たとえば1月26日には、対馬市と市議会は防衛省に対し、自衛隊の増強などを求める要望書を提出、政府も、国境地域の離島振興策を目的とした特別措置法の制定を視野に検討に入ったそうである。

 なぜこういう事態になったのか?それは大局的には政府が、長年にわたって地方活性化のための有効な対策を何ら打ってこなかったために、「東京(あるいは首都圏)のみの一人勝ち」と「他の全ての地方の没落」がとどまるところを知らず進行してしまったことに根本原因がある。もともと離島で就職先も限られていることもあって、国や自治体が行う公共事業という名の土木工事優先の事業で過疎地の雇用を守れるはずもなく、市の統計によると毎月50人程度人口が減り続けている、という。

 ところが人口3万余りのこの島に、金融危機以前には最大年間6万もの韓国人が観光に訪れてくれた。日本の政治・経済の中枢から遠いこともあって日本人観光客が伸び悩み、島の経済が低迷する中、お金を落としてくれるなら日本人だろうと韓国人だろうと国籍は問わない、というのは地元の当然な思いであろう。

 従って、日本人が住まなくなった過疎地に外国人が住み着くようになったとしても、それが自然な流れであれば誰も非難はできない。それがどうしてもイヤというのであれば、地元民が地元で生活できるような、地元民の恒常的な雇用が保障される何らかの有効な施策がなされないといけない。以下にこの問題を素人なりに考えてみたい。

2.国立の文化・研究施設の分布状況
 さて、弥生時代あるいはそれよりもっと昔から、中国や朝鮮半島との交流の接点であり続けてきた対馬とその周辺海域。歴史の宝庫であるこの地域に、国立の研究施設は全く存在しない。いや、そもそも四方を海に囲まれた海洋国家であるはずの日本に、水中考古学を専門に扱う国立の研究施設はひとつもないのである。

 たとえば今から730年前に起こった元寇の舞台のひとつとなった長崎県伊万里湾口にある鷹島。この周辺海域は弘安4年(西暦1281年)閏7月1日(現行歴8月23日)、博多湾を襲うべく集結したばかりの東路軍と江南軍あわせて14万人、4400艘という大艦隊が、台風の来襲で一夜にしてその多くが海の藻屑と消えてしまった歴史上貴重な場所である。

 しかし、発掘調査すればそれこそ山のように「お宝」が出てくるであろう鷹島とその周辺海域、あるいはもっと広く博多湾一帯のどこにも、国立の文化研究施設はない。鷹島町立の歴史民俗資料館には、時々実施される発掘調査で出てきた多くの遺物が展示されているが、こういう「国家の歴史」そのものの調査研究や展示でさえ、乏しい予算でやりくりしている地方自治体に委ねられているのが実情である。

 さてそれでは、国立の文化施設にはどんなものがあり、それらはどこにあるのか?調べてみると、演劇分野については「国立劇場」(東京にある「本館・演芸場」、「国立能楽堂」と、大阪にある「国立文楽劇場」がこれに属する)と、これも東京にある「新国立劇場」と、沖縄にある「国立劇場おきなわ」。「国立博物館」としては東京、京都、奈良、九州の4館。

 美術分野では「東京国立近代美術館」、「東京国立近代美術館フィルムセンター」、「国立西洋美術館」、「国立新美術館」の4館が東京に、「国立国際美術館」が大阪、「京都国立近代美術館」が京都にある。文化財研究施設としては東京に「東京文化財研究所」、奈良に「奈良文化財研究所」のふたつ。それ以外の施設としては、これも東京にある「国立国語研究所」と「日本芸術院」のふたつ。以上が文化庁が所管する日本の国立の文化施設のすべてである。一目瞭然なのは、国立の文化施設の大半が東京に集中している、という事実である。

3.東京のみの繁栄と地方の疲弊
 東京は現在、世界最大の都市である。都心23区の10%通勤通学圏の人口は3000万人と、都市圏ベースの比較でロンドンや上海の2倍、ニューヨークやソウルの1.5倍にもなる、という。内閣府が2月12日にまとめた06年度の県民経済計算によると、一人当たりの県民所得の1位は東京の482万円で2位愛知の1.37倍、最下位の沖縄の2.31倍。ちなみに05年度では東京は愛知の1.36倍で沖縄の2.36倍、03年度では愛知の1.25倍で沖縄の2.09倍であった。

 こういうデータを見るだけでも「東京や首都圏への人と富の集中と、東京と東京以外の地方との間の経済格差」、これが今も着実に進行し続けているのは明白である。私は小中高時代を麹町や代官山で過ごした「元東京人」であるが、たまに東京に行くとそのたびに町の様子が変わっていて、その活気に圧倒される。しかし、東京とその周辺のみが元気で、その他の地方が過疎とシャッター街に泣いている現状は、日本人にとって決して幸せなことではない。

 中央政府主導の「平成の大合併」に地方が翻弄されていた時代、長野県に属していた旧「山口村」が、岐阜県の中津川市役所まではわずか15kmなのに、長野県庁の木曾合同庁舎までは45kmと遠いこととか、中津川市への通勤・通学者が半数にものぼる現実から、村民多数の意思として、長野県ではなく地理的により近い岐阜県中津川市に合併されることを願い、当時の長野県知事田中康夫氏らの反対を押し切って2005年に中津川市への編入合併を達成した、という「事件」があった。この事件の意味するものは、「遠い親戚よりは身近なご近所」の方が助けになることを、過疎の村の住民自身が肌で知っていた、ということなのだろう。

 そういう意味でも、行政の権限と財源の大半が、地方住民にとって物理的に遠い東京に一極集中していて、地方政府でさえ東京からの指令で動かされている今の日本の現状は、少なくとも地方住民にとっては、百害あって一利なしである。多くの論者と同じく私も、それを変革する唯一の道は「道州制」(あるいは「州制」)の実施しかない、と確信している。

4.私が州制を支持する理由
 州制が実施された暁には、たとえば対馬市が上述の問題などについて交渉する主なる相手は、国から地方行政の権限と財源の大半を移譲された州政府である。(ここで州都は、既存の大都市ではなく過疎地に作るべきだし、またあくまでも行政都市であって経済都市にはするべきではない、と私は考える。たとえばアメリカで、政治の中枢であるワシントン市と経済の中枢であるニューヨーク市とが分かれているように)州政府と市町村はお互い地理的に近く、関連する権限や財源も東京ではなく地元にあることもあって、両者の意思の疎通は今よりはるかに容易になり、地元の要望に沿った解決法が見い出せるのではなかろうか?「地方のことは地方に任せろ!」。これこそが地方が今の疲弊から脱出できる唯一の道である。

 ではなぜ、地方に権限と財源を移転するとはいっても、移転先は既存の都道府県ではなく、より広域の「州」でないといけないのか?この疑問に対して私はこう考える:たとえ対馬のような離島に住んでいる人でも、「文化的な生活」を送る権利がある。それは憲法第25条が保障しているもので、「文化的な生活」がどういう生活を指すのかは議論があるところで、人によっても変わる性格のものだが、たとえば「離島に住んでいようと、クラシック音楽愛好者なら、せめて年に一度ぐらいは大きいコンサートホールで生のクラッシック音楽を聴けるような生活」と定義しても良かろう。

 しかし今の日本では、それは多くの国民にとって、かなわぬ夢でしかない。その一方で、東京を中心とする首都圏の住民には(たとえば現在、国立西洋美術館と国立新美術館で、テーマの異なるふたつの「ルーヴル美術館展」が6月まで開かれている、というように)文化的に恵まれた環境が国の予算(つまり国民の税金)で与えられている。これは不公平である。私が州制を支持する理由のひとつがここにある。

 各都道府県に巨大なコンサートホールを作ったとしても、3大都市圏を除けば人口が少なすぎることもあって、それぞれの施設が黒字を計上するのは難しいだろう。しかしより広域の連合体である州制が実施され、州がコンサートホールを作るのならば、離島の住民であっても、はるばる東京にまで高い旅費を使って出かけなくても、はるかに近いところで希望が満たされる可能性が高まるのだ。つまり州制は、憲法第25条が保障する「文化的な最低限度の生活」を、今までよりもはるかに多くの国民に保障してくれる可能性が高いのである。

 江戸時代には、たとえば、西洋医学を学んだ大阪の緒方洪庵の元に、多くの若い医師が集まって一大拠点となった。また世界最初の麻酔術を案出したことで名高い花岡青洲は、和歌山の田舎医師であった。明治維新の大改革を成し遂げたのも、江戸ではなく長州などの地方の下級武士であった。つまり、昔のほうが今よりもはるかに地方分権であり、日本各地に文化の拠点があった。封建時代には戻れないし戻るべきでもないが、州制が約束してくれそうな真の地方自治、真の地方分権へ向けての日本政治の舵の切り替えを、政治家の「先生方」には切にお願いしたいものである。

5.霞が関と永田町とマスコミの消極的対応
 とは言うものの、「政治を中央集権から地方分権へ、そして州制へ」という国家の舵の切り替えを、道州制を推進することを綱領に掲げている自民党(注1)にも、あるいはその他の政党にも余り期待できないところが悲しい。なぜなら州制の施行は、国政のみではなく地方政治をも睥睨している永田町の政治家から、現在彼らが持っている権限の多くを奪ってしまおう、という一大組織改革であるからである。中央集権を満喫しているのは、他ならぬ永田町の政治家だからである。

 霞が関の官僚が州制に反対するのはわかる。今までは中央集権で、日本の行政にまつわる権限と財源のほとんどが霞が関に集中し、地方自治体とはいっても実際には霞が関の出先機関としての機能しか与えられていなくて、霞が関官僚はこれまで日本という国家をやりたい放題自由にコントロールしてきた。それなのに州制が実施されたら、霞が関が今まで握ってきたこれらの権限と財源の多くが、自分の手から離れていってしまうからである。

 従って霞が関官僚は、地方分権や州制の実施には終始大反対である。たとえば最近でも、3月24日明らかになったところでは、地方分権を推進する地方分権改革推進委員会が勧告した「国の出先機関の統廃合」の骨格部分でさえ、官僚と族議員の反対で、政府の工程表にも盛り込まれることなく無視されてしまったそうではないか。

 また東京に本社があるいわゆる「全国紙」も、地方分権や州制の実施には興味がない、と言わざるを得ない。その理由も霞が関の官僚と同じで、地方分権が徹底して、地方のことについては地方政府が主体的に動けるようになったら、東京発のニュースの重要性が今よりもはるかに弱まってしまい、全国紙を発行する意味が大幅に減ってしまうからである。

 従って、「霞が関も永田町もマスコミも、地方分権や州制といった国家権力の地方移転には、本音のところでは全く消極的で、『かつての首都移転運動と同じで、そのうち頓挫するさ』となめている」と見たほうがいい。

 以上見たように、政治が何の手も打たずに放置している現状では、人も富もより一層東京に集中し、それにともなって文化施設もますます東京に集中する一方、地方は経済的にも文化的にも極度の貧困に苦しむ事態に立ち至ってしまったのは、当たり前の話である。そういう意味でも、「国が握っている権限と財源の多くを地方に移転させ、地方に元気を呼び戻す、その切り札としての「州制」をマニフェストの最初に掲げる」ような新しい政党の出現を待望するし、それに向けて活躍してくれる国会議員を選びたい。それしか地方住民が過疎から脱するための道はないのではないか?

6.過疎地の活性化のための試案
 地域活性化策というと、国や地方自治体はすぐ公共事業を思いつくらしいが、一時的には雇用が確保されてもその時限りで持続しないという点で、公共事業頼りの地域活性化策は邪道だ、と思う。それよりも、恒常的に雇用が確保される政策が望まれる。「国から地方に地方自治の権限と財源を大幅に委譲させる上述の州制の実施」が地方に活気を呼び戻してくれるのは確実、と私は信じているが、その前でもすぐにできる地域活性化策をいくつか提案してみよう。

1.国は地方に比べて圧倒的に大きい予算を持っている。しかし欧米諸国と比べたときの日本政府が支出する文化関連予算が極めて少ないことは、公知の事実である。しかも国立の文化施設は上述のように東京に集中している。

 従って提案としては、もっと国立の文化施設を地方のあちこちにつくること。たとえば上の議論に関連して言えば、対馬、平戸を含む九州北部一帯の国際関係史を研究する国立の研究機関(たとえば水中考古学研究センター)といった一大施設を対馬とかに設置し国費を投じる。こうすることで新たな雇用が生まれ、施設見学者などによる観光客増で、地域の活性化も多少なりとも期待できるのではなかろうか?

2.繰り返すが、日本は海洋国家である。しかし多くの国民にとっては現在、海は自分たちの生活から遠いところにある。これはもったいない。だから、「海を再び自分たちの手に取り戻そう」。

 そのための方策としてたとえば、こどもの時から海に慣れ親しんでもらうために、都市部の自治体がそれぞれどこか相応しい海岸べりに、何らかの住民のための施設(それはたとえば、子供たちの自然教育のための施設であって、大人のためのリクリエーション施設を兼ねたもの)を作って、住民が安価で海に親しめる環境を公的に提供してみてはどうだろうか?子どもたちがそれぞれの学校から遠足で来てここに何日か滞在し、海での泳ぎ方を学んだり、磯での自主研究とか水中散歩とかをやる。それは楽しい思い出になるのではなかろうか?

 その設置場所は、たとえば愛知県の施設が北海道にあってもいい。いや、地方自治体が各自勝手に作るよりも、国費で計画的に作った方が、各地固有の自然環境をいろいろ実体験できて、国民にとっては一層素晴らしいことになるかも。そういう施設が過疎地のあちこちの海岸べりにできれば、過疎地の経済も多少は潤うことにもなるし。

3.これまで国は重点化政策によって、特定大学に優先的に予算を配分し、地方大学を切り捨てつつある。しかしこのながれは日本の「東京への一極集中」を更に助長し、地方をますます疲弊させる愚策である。むしろ(たとえばスウェーデンでは、地方から大都市への人口流出を食い止める手立てとして、地方での国立大学設置に力が入れられている(注2)ように)地方大学の拡充整備に重点的に国費を投じることで、地方に住む学生数が増加し、地域経済も活性化する。それに、州制が実施されたら、国立大学はみな州立大学に変わり、地方大学が州の中枢的教育研究機能を担うことになるのだから。

 そう。結論的に言えば、地方の活性化のためには、もうこれ以上東京に教育・文化施設を集中させてはならないのだ。むしろ「地方にこそ重点的に国費を投入する」べきなのだ。そうしないと、もはや日本は、東京のみが生き残った「一将功成りて万骨枯る」極めて奇形の状況に陥ってしまうだろう。その危機は目前にある。

注1:http://www.jimin.jp/jimin/seisaku/2008/seisaku-021.html
注2:竹崎孜著「貧困にあえぐ国ニッポンと貧困をなくした国スウェーデン」(あけび書房 2008年)76ページ。

下のリストは、この記事をもとにJanJanのすべての記事の中から「連想検索」した結果10本を表示しています。
もっと見たい場合や、他のサイトでの検索結果もごらんになるには右のボタンをクリックしてください。