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東京大空襲を語る(3)橋本代志子さんの話

大和修2006/03/17
沈丁花の香りとともに、乳飲み子を抱いて川へ飛び込んだときの別れ際の母の悲しい顔が蘇る。母の顔を原点に、体験を語りつつ、庶民の戦災史の聞き書きや「暮らしから平和を考える」活動を続ける。
東京 戦争 映像
映像配信「東京大空襲」を語る―橋本代志子さんの話

 橋本代志子さん(現在は千葉県船橋在住)に会うと沈丁花(じんちょうげ)を思い浮かべる。早春に、春の花で一番といわれる芳香を放って咲く白や紅紫の花である。

沈丁花の香りとともに

 「今年も沈丁花の花が咲きました。白いその花の匂いと、お線香の香りが混じり合って江東の運河を漂い始めると、私の住んでいる下町には3月10日が巡ってきます」

 橋本さんが、そんな書き出しで始まる『沈丁花』という随筆を、外地を含め様々な戦争体験を持ち合って集まった婦人グループの生活記録のなかで連載しだして10年になる。

 どんな花なのか。たまたま手元にあった「ラジオ深夜便 誕生日の花と短歌365日」(NHKサービスセンター発行)という本を開いて、ジンチョウゲのくだりを探してみた。

 春雪に埋もれし今朝のジンチョウゲ 起こせば強き香りを立てる

 昨年10月に急逝した歌人の鳥海昭子(とりのうみ・あきこ)さんが詠んだそんな短歌が載っていた。「・・・不意にかすめたその強い香りに『不滅』の生命力を感じたのでした」という鳥海さんの「ひとこと」とともに。花言葉は「不滅」とある。

 「生きながら燃えていった両親と妹を想い、自らも体験した戦争を憎み、死者の鎮魂を願い、私はいつの頃からか、戦災の地蔵尊や石碑を尋ね歩くようになりました。そしてその数の多さに驚きました。供花も美しく守られている仏、高層ビルの陰に崩れはじめ忘れられている仏、と様々でしたが、その静かな笑いは決して忘れ去ってはならない命の大切さを語りかけているようです・・・」。連載の初回の冒頭で橋本さんはそう続けている。

 大空襲をくぐり抜けてきた人たちのことを考えれば、戦後はまずは毎日の生活をおくり生計を立てるのが精一杯だったろう。やがて男性は仕事に、女性は家事、とりわけ子育てや高齢化した親の世話などに追われてきたはずだ。自らの体験を社会に向けて語り、その体験を活かそうと動きだすのは身辺の環境が一段落してからというのが普通ではなかろうか。かなりの時間が経過してからというのが一般的だったといえるだろう。

罹災者の平和活動の先駆け

 そういうなかで橋本さんは、戦後3人の子どもを育てながら、罹災者の間では比較的早い時期の1970年代初めごろから、例えば「大空襲を記録する会」に編集委員として加わって庶民の戦災誌づくりを進めるなど、戦禍の聞き書きや語り継ぐ活動に積極的に身を投じてきた。

 平和の実現をめざして地元や生協など様々な組織の活動にも力を割き、82年には軍縮総会に伴うニューヨーク行動に参加している。空襲体験を出発点に、戦争と平和の問題に、主婦として、生活者として広くかかわり、動いてきた。そういう先駆けのひとりといってよいだろう。

 84歳の今も東京大空襲・戦災資料センターに時折足を運び、訪れる人に話し、質問に答え、さらには一帯の戦災追悼碑などの史跡を案内して歩いたりという活動を絶やさない。

 その合間にうかがった今回の話は、平和運動への思いや、今の社会への危機感、次代を担う子どもたちへの不安と希望、行政への注文など多岐にわたったが、紹介する映像では、空襲当夜の体験の部分にしぼって収録した。

 映像の話は、空襲前日の様子から始まる。当時、橋本さんは24歳、両親と3人の妹、夫と1歳3ヶ月の息子の8人家族で江東区内に住んでいた。

 以下、話の概要である。(撮影は2月に行った)


 
*        *        *
    

 (あの年の3月10日の)2、3日前に雪が降った。その雪が電信柱の下の方にまだ溶けないで固まっていた。

強風がびゅーびゅーと吹き抜けていた

 前日は、そこに強い北風がびゅーびゅーと吹き抜けていた。燃料がなかったから部屋の中にいても寒かった。こんなときに火でも出したら大変だねなんて言い合っていた。

 私はその頃赤ん坊をしばらくお風呂に入れられないでいた。いつもなら遠いお風呂屋さんの煙突を見て、ああ、あそこのお風呂屋さんは今日はやっているというわけで、赤ん坊を抱えて行っていたのだが。

 でも、その日は(久しぶりに)昼間お風呂へ行ってきたので、赤ん坊はおとなしかった。

 そのころは夜になると、「定期便」というあだ名がついていた飛行機がもう必ず出て来るようになっていた。(その夜も)「また定期便でも来なければいいね」と話していた。

案の定、警戒警報が

 そしたら、案の定、警戒警報だ。警戒警報がなると赤ん坊を抱いて防空壕に入らなくてはならなかった。そのときも防空壕へ入って母と一緒にいた。

 父や妹たちは、外の防火用水に張った氷をこわしていた。
 
 そうしているうちに「大変だぞ、外へ出て見ろよ」という父の叫び声が聞こえた。

 びっくりした。何事が起こったのかと思って、赤ん坊をおぶって外へ出てみると、それはそれはもう、空が真っ赤なのだ。

 私の家から西の方が真っ赤だった。焼夷弾がバラバラバラバラと飛行機から落とされているのだ。びっくりした。

 父が「あぶないぞこれは、普通じゃない」と言って、さらに「おまえは子持ちなんだから早く逃げなさい」とうながすので、赤ん坊をおぶって、ねんねこ半纏も二枚を重ねて着て、家から近い総武線のガードの下へ逃げた。そこで家族が来るのを待った。

 やっと家族が集まったときには、石原町というのがちょうど南側にあるのだが、その町の方から遠くの方まで見渡せるほど昼間のように明るい。火は思いもかけないほど速く迫ってきた。

「火には水」と避難したが

 総武線の両脇は強制疎開で家がなかったが、家を壊したあとに水槽ができていた。「火には水」というので、そこにも人が沢山避難してきた。

 そのとき父が言った。「ここもいいけれど、(本当は)あぶないぞ。鉄道は爆撃の目標になるといけないから、違うところに逃げよう」と。

 だけど、違うところに逃げようと思っても、どっちを見回してもその頃はもう火の海だ。それでも、父の言うことがもっともだと思い、どっちへ逃げたらいいかを思案した。

 とにかく、「火には水」だというので竪川を選んだ。竪川に出るには三つ目通りという広い通りを出なければならない。そこで、みんなで火の粉をよけながら通りに出た。

 いつもは広い通りだが方々から人が流れ込んできて、もうパニック状態だった。

 押し合いへし合いするなかで、父と母は一番末の妹の手をしっかりと握って逃げていた。

 私はそばにいた2番目の妹の手を握ろうと思ったのだが・・・その子は悦子といって、大妻高女の三年生だった。

 その子はお釜を持っていた。お釜のなかには白米が入っていた。あの頃は食べ物が貴重だった。それでしっかりとお釜を持って逃げていた。

 あぶないなと思って見ていた。(妹は)あっちに飛ばされ、こっちにこづかれしながら一所懸命になって逃げていた。

(以下、記事2ページへ続きます)
◇ ◇ ◇
東京大空襲を語る(3)橋本代志子さんの話
橋本代志子さん
東京大空襲を語る(3)橋本代志子さんの話
戦前撮影された橋本さんの家族写真(後列右端が橋本代志子さん)
東京大空襲を語る(3)橋本代志子さんの話
東京大空襲・戦災資料センター近くの道ばたにも沈丁花の香りが
(江東区北砂で大和写す)
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