宮崎市の宮崎市民プラザで12月28日、「第32回戦争体験を語り継ぐ三世代交流の集い」(原爆と戦争・宮崎空襲展を成功させる会、代表:池田一・元宮崎大学学長)が行われた。
今年最後の交流会ということで、午前10時から紙芝居や絵本の読み聞かせ、午後0時半から映画『はだしのゲン 1』の上映が行われた。年末となって、参加者は30名と少なかったが、午後2時から三世代交流の集いが行われた。
前回の11月23日は、初年兵としてマレー作戦に参加し、その後、インパール作戦で重傷を負った宮崎市在住の山口義則さん(88)が「コタバル強襲上陸」の状況を生々しく語った。今回は、中津園子さん(72)が、広島市で被爆した当時の状況を次のように語った。
広島での被爆体験を語る中津園子さん(12月28日、宮崎市民プラザで筆者撮影)
☆
私(中津さん)は、爆心地に近い広島市中区弥生町に住んでいた。そのころの弥生町は商家が多く立ち並び、にぎわっていた。
8月6日はとても暑かった。8歳の私は、2歳年上の姉と母の3人で出かける準備をしていた。すると、家の高窓からものすごい光が差し込んできた。原子爆弾であった。
ピカッ!
気がつくと私は、一人、つぶれた大きな屋根の上で泣いていた。姉や母と一緒にいたはずだが、そばにはいなかった。
泣きながら2人を探し回ると、母は家の下敷きに遭い、上半身が見えていた。「開けて! 開けて!」という姉の声は聞こえてくるが、どこから聞こえてくるのか分からなかった。私は、泣きながら助けを呼んだが、みんな逃げるのが精一杯で、だれも助けには来てくれない。
消防署に勤めていた兄は、夜勤から帰る途中に被爆した。被害の状況を目の当たりにした兄は、急いで家へ帰った。
母の様子を見たが、いくら男といっても、兄一人の力では母に覆いかぶさっている柱を取り除くことはできない。私と兄は懸命に助けを呼ぶが、みんな避難するので精一杯であった。
母を助け出すことができない状況の中、火の気が近づきつつあった。朝8時過ぎというので、朝食で火を使っていた家が多かったこともあり、火の海が広がりつつあった。
参加者からも多くの感想が寄せられた。
母は覚悟を決めたらしく、私と兄に「早く逃げなさい」と、厳しい声で言った。そのときの母の言葉と、姉の「開けて! 開けて!」の声は、今でも耳に残っている。
兄は後ろ髪をひかれる思いで私を背負い、その場を去った。私は何度も後ろを振り向き、母の顔を……。夜になると、母が恋しかった。
炎の中を、兄と二人で逃げた。やっと、川へたどり着いた。しかし、私が見た川は、地獄のようであった。どこが川だか分からないほど、水を求める人、やけどで川に飛び込む人などであふれていた。
兄は小さな船を見つけ、私もそれに乗った。川にいた人たちは、船のふちに手をかけて、「水をくれ!水をくれ!」と叫んでいたが、次第に船のふちから手が離れ、川の中に沈んでいった。二度と上がってくることはなかった。(ビデオ第1部)
何日かかけて、私と兄は、叔母の家へたどり着いたのは夕方だった。叔母は私たちを抱きしめて、「よく助かったね」と言って、泣いてくれた。
その夜、私と兄は野原から、真っ赤に染まった広島市内を見つめた。兄は泣きながら、「園子、お母さんたちは焼け死んでいるよね」と私に言った。
その後、遺品などを整理していた。母の時計は8時45分で止まっていた。原子爆弾が落ちたのは8時15分。この30分間は、とても長くつらいものであった。
70歳を過ぎ、この先、あと何年間生きられるか分からない。生きている間、いろいろなところに出かけて、みなさんとお話がしたい。そして、この話の輪を広げていきたい。そして、戦争、核兵器をこの世界からなくすことを願いたい。
私を助けた兄は、5年前、白血病で亡くなった。いつか私にもそのような時がやってくる。それまでの間、多くの方々と話がしたいと思っている。(ビデオ第2部)
☆
ビデオ第2部で中津さんは、広島に出かけたことや、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のことについても語った。
中津さんは爆心地に近いところで被爆したが、ほとんど無傷であった。これは、あの時苦しんで、悲しんで亡くなった方々のおかげだと思い、感謝していると語った。
その後、参加者一人ひとりから感想が述べられた。若い世代の感想のいくつかを紹介する。ビデオ第3部にも参加者の感想を掲載しているので、ご覧いただきたい。
☆
・今日お聞きした話を、いろいろな人に伝えていきたい(女子大学生)
・一人の声は小さいかもしれないが、戦争で大切なものを失ってしまうということを多くの人に伝えていきたい(男子大学生)
・中津さんの話に心が打たれた。戦争は絶対にしてはいけないと思う。たくさんの人に伝えていきたい(女子専門学校生)
この1年、数的には多くはなかったが、戦争を体験された方々のお話をお聞きすることができ、非常に勉強になった。と同時に、少しでも多くの戦争体験を記録として残し、次の世代に伝えていく活動の重要性も認識した。
来年も、時間の許す限り取材を続けていきたい。