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プーチン政権の暗部を取材し続け凶弾に倒れたロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんの追悼集会が昨夜(12日)、東京都文京区で催された(共催:チェチェン連絡会議、市民平和基金など)。 会場の文京区民センターには、アンナさんの死を悼む勤め帰りの市民など約200人が集まった。主催者を代表して「市民平和基金」の青山正さんが「チェチェン問題を追及し続けてきた私たちにとって悲しい出来事です。私たち日本の市民にとっても事件です…」などと追悼の辞を述べた。 アンナ・ポリトコフスカヤさんはモスクワ大学卒業後「イズベスチャ紙」を振り出しに出版社などを経て、1999年からゴルバチョフ元大統領が取締役を務める「ノーヴァヤ・ガゼータ紙」の記者となる。 反クレムリンの姿勢を貫く「ノーヴァヤ・ガゼータ紙」で、アンナさんはプーチン政権の腐敗を追及する取材を始める。腐敗の核心であり、彼女が全身全霊をあげたものがチェチェン戦争だった。追悼集会でのスピーチもチェチェン戦争が中心となった。 プーチン大統領とチェチェン戦争 プーチン氏はチェチェン独立に対して強硬な政策をとることで大統領に上り詰め、現在の地位を築いたともいわれる。大統領に当選した2000年の選挙で、プーチン首相(当時)は戦闘機に乗ってチェチェンに乗り込んだ。ソ連の崩壊でプライドを傷つけられていた国民に対して、強いロシアの復活をアピールするためだった。プーチン氏を当選に導いたのは、このパフォーマンスだったといわれる。 対チェチェン強硬策は「テロとの戦い」とプーチン政権は強調する。ところがそのテロは「自作自演」の「官製テロ」ではないかとの見方が尽きない。 2000年の大統領選挙直前に、モスクワ郊外のアパートで連続爆破事件があり、243人が死亡した。プーチン陣営はチェチェン独立勢力によるテロだと決めつけ、世論を煽った。ところがアパートにはFSB(連邦保安局=KGBの後身)のベースがあり、爆薬を所持していたFSBのエージェントが見かけられているのだ。 2期目を目指す2004年の大統領選挙直前にも、モスクワ地下鉄爆破事件があり、39人が死亡している。ロシア政府はこれもチェチェン独立勢力の仕業である、と喧伝した。だが有力な根拠はなく、こちらも「官製テロ」との指摘がある。 プーチン大統領が権力を維持するためには、チェチェン独立勢力はテロ組織であらねばならない。プーチン政権はチェチェンにおけるクレムリンへの敵対意識を煽ってきた。このためにも徹底弾圧し続けるのだ。チェチェン人とあらば武装勢力でなくとも拷問あるいは殺害したりするケースもある。プーチン政権によるこうした蛮行は、人権団体の間では常識だ。 「殺す」と脅迫されていたアンナさん アンナ・ポリトコフスカヤさんが「ノーヴァヤ・ガゼータ紙」に入社した1999年は「第2次チェチェン戦争」が始まった年だ。「第1次チェチェン戦争」と違い「第2次」は、ジャーナリストの現地取材に大幅な規制が加えられていた。アンナさんは危険を犯しながら、数十回にわたってチェチェンに入り、拷問などの実態を取材した。そして告発し続けた。 アンナさんは、プーチン政権が最も隠しておきたい事実の数々を明るみに出した。権力にとっては当然、厄介な存在となる。彼女は「チェチェンのカディロフ首相(クレムリンの傀儡)とその一派に『殺す』と脅迫されている」とプラハの人権団体に明かしていた、という。 アンナさんは6日、モスクワ市の中心部にある自宅アパートのエレベーター内で何者かに射殺された。捜査当局によれば、発射された弾丸は全部で4発。3発は胸部に、1発が頭部に撃ちこまれていた。拳銃は遺体の傍らに添えられていた。権力の不正を追及するジャーナリストにとってこれほどの圧力と脅しはない。 「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」によれば、ソ連崩壊(1991年)後、ジャーナリストの殺害はこれで42人目、プーチン政権になってからは12人目となる。真犯人は1人もあがっていない。 アンナさんが殺害された翌日の7日、プーチン大統領は自身の54回目の誕生日を豪勢に祝った。 ◇ 本記事は「Radio Free Europe」「New York Times」などを参考に執筆しました。 ◇ ◇ ◇
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