「会場」を埋めた参加者
9月13日(土)東大・弥生講堂で「撫順・加害と再生の地から、現代と未来を考えるシンポジウム」(主催:「撫順」から未来を語る実行委員会)が開かれた。
冒頭に「平頂山事件」と「撫順戦犯管理所」の記録映像を、それぞれ10分ほど解説を交えながら映写した後、初来日された「平頂山事件」の幸存者・王質梅さん(87歳)の証言に移った。
「証言」する王質梅さんと司会者
最初に「平頂山事件」とは
柳条湖での「満州事変」の約1年後の1932年、中秋の名月の9月15日、当時、日本が占領していた撫順炭坑が抗日義勇軍により襲撃された。関東軍はこの失態に見せしめと報復のため、隣の「平頂山部落」関係者が協力したとの理由の下に、翌16日、住民3000人余りを強制的に一箇所に集め機関銃などで虐殺した事件である。
この「軍規違反」隠蔽のため虐殺後、遺体に放火したが叶わず、ダイナマイトで崖を爆破し埋めた。その後、日本政府はこの事実を国際連盟でも否定し続けていた。現在、その遺骨の一部を掘り起こして建物に取り込み、『平頂山惨案記念館』として保存し、参観できるようになっている。幸存者は次々と亡くなり現在6人である。
以下、王質梅さんの「証言」概要である。
トラックでいっぱいの日本軍が来て、銃剣を向け自宅退去を強制し、隣のおばあちゃんは病気で起きられずその場で刺し殺された。両親と弟と4人で行った場所には多くの人が集められていた。「写真を撮るのでは?」と噂が流れたが、三脚の上の「黒い布」を取ると、回りを囲んでいたそれは機関銃で一斉に火を噴き、集められていた住民は次々倒れた。
その後、生き残った住民を確認するように、兵士は拳銃や銃剣で一人づつ殺していった。両親と弟も殺され、自らも背中を刺されながらも歯を食いしばり、死んだふりをして生き残った。
軍が去った後、重なる死体の上を歩き、助けを求め隣村に辿り着いたが、助けを求めた家には薬もなく傷口に「灰」を塗ってくれた。その家も危ないと、更に家人と一緒に逃げ、その先で避難してきた人から「李さんの子ではないか?」と問いかけられ、叔母の生存が判り、母の兄弟が迎えに来てくれた。
しかし、旧姓だと「平頂山事件」関係者と判り、危険だと、旧姓の李から現在の王に姓を変えて生きてきた。以前は話などできず、初めて話したのは75、76年頃だと思う。平頂山の「記念館」にも行ったが、遺骨を見ると今でも「母ではないか?」と泣けてしまう。
96年8月、幸存者3人が国の責任と賠償を求め提訴したが、判決はその事実を認めながらも要求を却下し、06年6月、最高裁の追認で敗訴判決が確定した。関係者は最高裁に抗議すると共に、現在も国の正式謝罪と「謝罪碑」の建設などを求めている。
休憩を挟んで「パネルディスカッション」に移った。
パネラーは戦後シベリアに5年抑留後、戦犯として「撫順戦犯管理所」に6年間収容された高橋哲郎さん(元「中国帰還者連絡会・事務局長)、中国撫順市社会科学院長の傳波さん、「平頂山事件」の第一人者・井上久士さん(駿河台大学法学部教授)、伊藤真さん(伊藤塾塾長)の4人で、平頂山訴訟弁護団の川上詩朗弁護士が司会を務めた。
井上さんは今までの経過や幸存者が既に6名しかいない現状などを訴えた。傳波さんは裁判で正義を否定され敗訴したが、10年間のメディア報道を含め、虐殺の「事実」を認めさせた成果は大きく、事件2ヶ月後には一部の新聞で報道されたが日本は当時、国際連盟でも否定し続けたと批判した。
高橋さんは軍隊の体験と、「撫順戦犯管理所」での人道的、寛大な措置の中で徐々に自ら人間性を取り戻し、目覚めていった体験などを話した。伊藤さんは「憲法問題」と絡めて、「9条の問題」は日本だけではなく、アジアとの約束でもあると主張、「正義の戦争」は無く、日本は加害に加担してはならず、今もイラクやアフガンで加害に加担し続けていると批判した。
4人のパネラーと司会者(後2人は通訳)
記者感想
集会タイトルの「加害の地」は言うまでもなく「平頂山」であり、瀋陽から1時間程度の場所である。また「再生の地」とは多くの虐殺などをし戦犯として収容された「撫順戦犯管理所」を、彼らは鬼から人間に戻った場所としての「再生の地」と考えている。
加害の地「平頂山」と再生の地「撫順戦犯管理所」は近く、訪中の際は是非!この双方を訪ねて頂きたいと思う。但し、「撫順戦犯管理所」に収容された元戦犯たちは「平頂山事件」とは直接関係ない。
「平頂山」の様な場所を「万人坑」と言い、松花江の上流にある「豊満ダム」や「大石橋・万人坑」、吉林省の「遼源炭鉱」、ハイラルの「沙山万人坑」など、中国の各地に在ることを「過ちを繰り返さないため」に知らなくてはならない。
「平頂山惨案記念館」の遺骨の数々(筆者撮影)
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「ガソリン放火」の跡
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「子を抱く親子の遺骨」
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