今年のノーベル平和賞は、世界各地の紛争で和平交渉をまとめ上げてきたアハティサーリ元フィンランド大統領に贈られることになった。
アチェ内戦・和平調印式。手前から2人目がアハティサーリ氏(ヘルシンキで筆者撮影)
アハティサーリ氏は旧ユーゴスラビア、インドネシアのアチェ、北アイルランドなどの紛争で各派とねばり強い交渉を続け、落とし所を探り出した。「国連の切り札特使」とも呼ばれ、こじれにこじれた紛争の和平仲介で実績をあげた。
185cm、100kg超の巨体を揺すって歩く。眼光は鋭い。威風堂々の迫力に紛争当事者も圧倒される。
筆者とアハティサーリ氏の接点は2005年8月、ヘルシンキで行われた「アチェ内戦」の和平調印式だ。
内戦はインドネシア中央政府とアチェ独立を目指す武装勢力との間で30年間も続いていた。インドネシア最西端のナングロ・アチェ州は天然ガス、石油などの地下資源が豊かだ。利権を独占したい中央政府は、九州よりわずかに広いだけのアチェ州に国軍の兵力3万5千を駐留させて徹底した恐怖支配を敷いた。
国軍の装甲車と女子高校生。隅々まで武力支配は行き渡っていた(アチェで、筆者撮影)
武装勢力はジャングルや山にこもりながらゲリラ戦で対抗したが、火力に勝る国軍に追い詰められていた。武装勢力は遠からず武器・弾薬が尽き消滅することは目に見えていた。拘束された武装勢力には、必ずと言ってよいほど苛酷な拷問が行われた。
このため軍門に降ることもできなかった。白旗を揚げることもできなかったのだ。中央政府は武装勢力の全滅を狙っていたのではないだろうか。地下資源さえ手に入ればよいのだから。
武装勢力が風前の灯となっていた2004年12月、インドネシアを大津波が襲った。インドネシアの犠牲者16万人のうち大半がアチェ州の住民だった。「アチェを救え」。見捨てられていた「内戦」だったが、津波と共に国際世論は高まった。
アハティサーリ氏は絶好の機会を見逃さなかった。翌月から和平交渉に入ったのだった。
落とし所はこうだった―。武装勢力には「独立」の旗を降ろさせる。中央政府にはアチェ州の大幅な自治権を認めさせる。軍事と金融以外はアチェ州に任せるというものだ。
両者にとって最も譲れないものを譲歩させるのである。片方が譲歩すれば、もう片方も譲歩せざるを得なくなる→交渉は成立する。30年間続いていた内戦が、わずか半年余りで和平に至ったのである。
ヘルシンキの繁華街エテラ・エスプラナディ通りの政府迎賓館で行われた和平調印式を、世界中のメディアが取材し報道した。「立役者」のアハティサーリ氏はテーブルの中央に座り「アチェの新しい歴史が始まる…」と誇らしげだった。
記者団との質疑応答で筆者は「この和平はまがいものではないか?」と問うた。なぜなら「和平後もアチェには国軍兵力1万3千が駐留する。住民たちは国軍によって、いとも簡単にまるで虫けらのように殺されていた。拷問死の遺体も日常的に見せつけられていた。その国軍が1万3千も残るのである。私はアチェのほぼ全土を回ったが、和平を信じている住民なんていない」。理由も説明した。
アハティサーリ氏は顔を紅潮させて言葉を返してきた。「とんでもない質問だ! EUが仲立ちして監視団も派遣するから大丈夫だ…(激昂して早口になったのだろう。後は聞き取れなかった)」。形相たるや赤鬼そのものだった。
武装勢力の交渉担当者は筆者の肩を叩いて感謝してくれた。だがアハティサーリ氏は激怒したままだ。それから1時間後、迎賓館内で顔を合わせた。“また怒鳴られるかな?”筆者は少し身構えた。
ところが氏は子供のような顔でニコ〜っと微笑みかけてきたのだ。この笑顔が、相手への憎しみで凝り固まった紛争当事者の心を溶かしたのだろうか。硬軟の巧みな使い分けに凄みを感じたのだった。