済州島西帰浦市中文洞の畑でミカンを収穫する池端さん
「食べたらうまいのに、ちょっと大きいだけで商品にならんのだもんな。もったいねえな」。北海道訛りで愚痴を言いながら、池端昌玉さん(63)は収穫したみかんを手早く仕分けしていく。ミカンの特産地・韓国の南海に浮かぶ済州(チェジュ)島は11月に入って収穫の最盛期を迎え、どの畑も忙しい。西帰浦市中文洞にある池端さんの畑にも、みずみずしく甘みのある温州ミカンがたわわになった。
日本の北の果て知床半島の羅臼町から、韓国の南の果て済州島に移住して既に3年が経った。60を過ぎて、なぜ北の大地から言葉も分からない南の島へ移住したのか。それはちょうど60年前の「済州4・3事件」で行方不明になったままの父の足跡をたどるためだった。約3万人が犠牲になり「虐殺の島」と不名誉な名前で呼ばれる済州島で、池端さんは第2の人生を過している。
池端さんの父、金奉洙。4・3事件に巻き込まれ、現在でも生死不明だ
池端さんの父、金奉洙(キム・ボンス)は1930年代後半に日本の植民地だった朝鮮・済州島から仕事を求めて北海道標津町まで来た。日本人女性と出会い結婚し、45年3月に池端さんが生まれる。しかし親子3人の結婚生活は長く続くはずもなかった。実は奉洙は済州に妻子のいる身であり、それを隠しての重婚だった。
女満別飛行場の土木工事に従事した後、ブローカーとして働く奉洙は家を長く空けることが多かった。妻にも知らせず、奉洙は7月に済州島へ帰って息子の出生届を出している。「出生届までしてたんだから、いつか済州に連れて帰るつもりだったんでしょう」と池端さんは話す。
間もなく太平洋戦争は終わり、奉洙は祖国再建のため単身済州に帰った。そこに吹き荒れた「4・3」の嵐。34歳の働き盛りで面倒見のいい親分肌だった奉洙は、他の多くの住民と同じように「アカ(共産主義者)」の嫌疑をかけられ、捕まって陸地へ連行された。光州刑務所に拘束され、朝鮮戦争の混乱の中で処刑されたのではという話もあるが、定かではない。
犠牲者を追悼する済州市の4・3平和記念公園には、慰霊祭壇に本妻の李春生、弟の金炳洙とともに名前が刻まれている。
済州4・3事件は、48年の大韓民国成立前後に起こった虐殺事件だ。米国の影響下にある国連は、48年5月に朝鮮半島南部だけでの単独選挙を強行しようとしていた。南朝鮮労働党済州島支部など左派市民らは、祖国分断に繋がる単独選挙に反発し、選挙前の4月3日に島内各所で一斉蜂起する。陸地から送られた韓国軍、警察、反共極右団体などはこの蜂起を徹底的に弾圧。弾圧は住民にもおよび、アカと疑われた人やパルチザンの家族らも含め多くが殺された。パルチザン側の報復殺害もあった。
4親等内に犠牲者がいない人はいないと言われるほどの虐殺事件は、済州島の歴史に今でも大きな暗い影を落としている。多くの人が日本に密航して逃げ、在日コリアンを形成した。
「4・3平和公園」内の慰霊祭壇には多くの犠牲者の名前が彫られている。金奉洙兄弟、妻の名前もここにある
池端さんが事件を知ったのはずっと後になってからだった。「小さい頃は父を恨んでいた。母と私を捨てた父を」。生活は荒れ、喧嘩ばかりして上級生からリンチを受けたこともあった。名前が朝鮮風であることもあり、学校でも孤立した。母は再婚し家を出て、一人になった。親戚に育てられたが、運動会や学芸会でもひとりぼっちで弁当を食べ「本当に情けない気持ちだった」。昆布漁をする叔父の家で、小学校の頃から食事の用意は池端さんの仕事だった。
小学校6年生のとき、数年ぶりに母と再会し、実の父が済州に帰り生きているか死んでいるかも分からないという話を初めて聞いた。このとき父を許す気持ちが芽生えたという。嫌だった自分の名前にも愛着が湧いた。
30歳になった池端さんは、韓国への旅を決意した。父のルーツが済州にあることは知っていたが、親戚がいることも知らないし韓国語もできない。それでも父の故郷を知りたくて75年、戒厳令下の韓国へ向かった。
苦労して知り合いを探し出し、共に済州へ渡る。中文洞役場へ行き父の戸籍を調べてみると、なんと父が申請した自分の戸籍があり、「金昌玉」という朝鮮名まであることが分かった。また腹違いの弟が洞役場で働いていることが分かり、大騒ぎになった。すぐに家に案内され、親戚中が集まり歓迎の宴が開かれた。ずらりと集まった大人たちが順番に自己紹介していく。池端さんはただただびっくりして聞いていた。天涯孤独だった池端さんにとって、血の繋がった人たちがこれだけいるなんて、思いもよらなかった。
ソウルに戻ると、ソウル在住の腹違いの兄たちまでホテルで待っていた。自分のルーツはここだと強く感じた。「あの時自分に子どもがいなかったら、すぐに済州に移住していたかもしれない。とにかく子どもが独立するまではと、北海道に戻った」このとき、朝鮮戦争で行方不明になったとばかり思っていた父が、4・3事件の被害者だということを知った。
子どもたちが独立してから、2004年に池端さんは念願の韓国に渡った。語学学校を出た後、親戚のミカン畑を手伝いながら暮らした。ミカンのならない北の果て羅臼で、漁船の電装修理の仕事をしていた池端さんにとっては慣れない仕事だったが、今年からは1500坪の畑を借りてひとりで栽培する。韓国語にも不自由で、さびしい一人暮らしを続けている。「まさか自分が済州島に住んでミカンをやるなんて思いもよらなかったさ。でも済州の血を引いてるからかな、ここは気が休まる。体が動くまでここに住む」と話す。
ミカンは20kgとっても1万5000ウォン(約1200円)程度にしかならない。少しでも規格より大きかったり傷のあるみかんは、ジュース用に出荷される。これは20kgがたった1500ウォンだ。池端さんの目標は、日本のミカン栽培の研究者を呼び、新しい手法を取り入れてどん底状態のミカン栽培を希望ある産業にすることだ。
収穫の手を休めて池端さんはつぶやく。「もしかしたらこの畑でも誰かが殺されたかもしれないな」。4・3事件と父・奉洙についての調査はなかなか進まない。親戚に聞いても、まだ重い雰囲気があるという。情報を得ようと今年になって遺族会に加入した。「済州の人たちは祖国分断に反対しただけで、何も悪いことはしていない。父の無念を晴らしたい。俺は父の分身なんだから、父の誇りを大きな声で自慢し、済州の歴史を知って子どもたちに伝えたい」。北の大地から南の島へ、父の面影を探して3千里。池端さんの挑戦は続く。
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