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12月8日に行われた、カナダ・ケベック州議会選挙は、自由党66議席、ケベック党51議席、ケベック民主行動党7議席、ケベック連帯1議席(定数125)という結果になり、与党自由党が過半数を獲得した。ジャン・シャレー首相は56年ぶりの連続3選を果たした。 史上最年少の28歳で閣僚を務めたシャレーは1993年、わずか2議席と歴史的惨敗を喫した進歩保守党の党首に就任した。97年総選挙では20議席を獲得し、党勢を盛り返したものの、これが限界だった。進歩保守党を見限って離党し、ケベック政界に転身した彼は、ケベック自由党党首に就任し、当時高まっていたケベック独立を抑えるべくケベック党に勝利することを求められたが、98年州議会選挙に敗れ、全てを失った。しかし彼は、この逆境の中から2003年・2007年・2008年と連続3選を果たし、ジャック・ルサージュ、レネ・レベック、ロベール・ブラサ、ルシエン・ブシャールらケベック政界の巨頭らも成し得なかった偉業を達成したのである。 彼は今後、ハーパー首相の退任に照準を当て、機を見て退任し連邦政治に復帰して、ポスト・ハーパーの座を伺うことになるだろう。 ケベック党のポーリン・マロワ党首は、1970年以来初めてとなる屈辱の第3党転落から2年足らずのうちに、ケベック党を野党第一党に復帰させた。彼女はケベック州初の公認反対党党首となる。 「我々は今夜、ケベック党が偉大な党であることを再認識した」。財務相、文相、厚相、副首相を歴任したマロワは、2007年6月に党首に就任したとき、ケベック党は独立問題に執着せず、社民主義の原点に立ち返るべきだと語り、今回総選挙でも独立を主な争点として掲げなかった。独立を問う住民投票は、1980年・95年のいずれも否決された。ケベック州民は長くくすぶるこの問題に倦怠感を抱き、独立問題に関心を持たなくなっていったのである。 だが、独立問題はケベック党の存在意義そのものだとする独立派は、マロワ党首の英仏2言語政策を厳しく非難し、2008年9月に虫垂炎の手術を受けた彼女の健康問題を取り沙汰した。マロワ党首は記者たちを集め、モントリオールのモン・ロワイヤル山に登るパフォーマンスを強いられた。 ところが、連邦首相ハーパーによる執拗な分離主義叩きが、ケベック党に強力な追い風となった。自由党圧勝が予想された今回総選挙で、マロワ党首は議席を減らせば確実に責任問題に発展するところを、議席を上積みして党首の地位を安泰のものとした。 民主行動党は39議席から7議席に転落し、公式政党の地位を失った。同党は長らくマリオ・デュモン党首1人の党だったが、2006年州議会選挙で野党第一党に躍進した。しかし新人議員ばかりの党は、ここ3年ほどの間に期待された働きができず、有権者を失望させていた。 デュモン党首は「ページをめくる時が来た。私は愛するものへと戻ろう」と語り、党首辞任を表明した。だが民主行動党は、正式名称を「ケベック民主行動党/マリオ・デュモン派」というほど彼のワンマン組織であり、党の今後は予断を許さない状況にある。 前回の州議会選挙で保守系の民主行動党が躍進すると、ハーパー首相はケベック自由党を見限り、民主行動党に接近したため「シャレー政権もこれで終わり」という声も聞かれた。だが民主行動党の壊滅により、保守党はケベックでの基盤を失う。ハーパー首相はこのところケベック連合を激しく非難してきたため、保守党がケベックで議席を獲得するのはいっそう困難となるだろう。 いっぽう、ハーパー首相の過度の分離主義叩きは、極左政党ケベック連帯の議席獲得という思わぬ結果も、もたらした。 |